【大屋政子の壮絶人生】幼少期の悲惨体験、父親の墓前で誓った敵討ち…極度の人間不信がもたらした尋常ならざる金銭への執着
自宅には度々子供を連れた女性が
難航した正妻との離婚話に何とか決着をつけ、政子と正式に結婚したのは求婚から5年後の昭和25年5月のこと。晋三にとって政子は3人目の妻であった。が、すぐに晋三の女性問題が政子を悩ませる。それは政子の言葉を借りれば「とれでもか、これでもかと女子(おなご)はんが出てくる」有様だった。
お抱えの2号、3号の他にも、大阪の自宅には度々子供を連れた女性がやって来て「この子は晋三さんの子です」などと言われ、お金を要求されたという。
登史子が当時を振り返る。
「そんなとき父は『政子、何とかしてくれ』と言って押し入れに逃げ込むんです。母が言っても帰ってくれない場合は、今度は子供の私が行かされるんです。そのときのセリフも決まっていて『おばちゃんが家の前でずっとおるから、うち寝られへんねん』。そう言うと大概の人は帰ってくれました」
アパート経営から始まった事業欲
晋三は家に一銭の生活費も入れないどころか、給料をそっくりそのまま愛人に渡していた。加えて晋三の選挙資金やらで借金は膨らむ一方。遂に政子は自分で事業を始めることを決意する。銀行から資金を借り、大阪市内の周防町に単身赴任者用のアパートを建てた。
「母は、浮気の監視役でずっと父の側に付いていました。だから自分がいなくてもできる仕事として考えたのが家賃収入の入るアパート経営だったんです」
それが大阪で最初の冷房機付きのアパートで、一流企業の御用達としてかなりの収益を生んだという。もちろん家主は政財界の大物夫人という触れ込みはフルに活用した。
それから後、政子の事業欲は膨らみ、金儲けに傾倒していくことになるのだが、この頃の状況を考えれば、それはむしろ当然の成り行きともいえた。
社長だ、大臣だといっても晋三にはこれといった資産があったわけでもなかった。そもそも晋三は個人資産の形成にまったくといっていいほど無関心だった。そんな中で政子は晋三の借金(帝人が立替えた選挙資金)の返済や、「後妻の意地」(政子)から先妻やその子供たちに対する金銭援助を行っていたのだ。
それに、いくら愛しているといっても老境の域に入った晋三がいつポックリ逝くとも限らない。そうなればまた「没落」である。墓前に誓ったかたき討ちも家の再興もできない。政子にとってそれは死ぬよりも辛いことであった。
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順風満帆に見えた大屋さんの事業は、「おとうちゃん」という後ろ盾をなくしてから暗雲が立ち込める。やがて大屋さんは余命2年の宣告を受けるが、病床でも「なめられたあかん」と言い続けた。後編(リンク埋め込み)では愛娘に告げた最期の言葉が明かされる。
後編「おとうちゃんの死後、大屋政子のミニスカートの丈は何故どんどん短くなったのか」へつづく
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