【大屋政子の壮絶人生】幼少期の悲惨体験、父親の墓前で誓った敵討ち…極度の人間不信がもたらした尋常ならざる金銭への執着
「親戚やのになんで来賓なんやろかなあ」
家が没落してから政子がどれほどの辛酸を舐めたのか、多弁な彼女にしては具体的に語った形跡はない。唯一明かした件の府議会議員の非情などはほんの一例でしかないだろう。
ただこんなエピソードがある。政子が事業家として絶頂期にあった頃の話だ。あるとき、親族の結婚式で政子はこうスピーチした。
「うち、昔なあ、この人(式を挙げる親族)の親の結婚式に呼ばれへんかったんよ。(キャバレーで歌っていたときに)うちのこと、淫売やいわはったんよ。せやからあかんのやて。でもきょうは来賓席の一番前。うち、親戚やのになんで来賓なんやろかなあ」
強烈な毒舌というよりも、これこそが明らかなかたき討ちというものであろう。生前、政子自身が何度も語っているが、自分ら母娘を蔑んだ者らを見返してやるという復讐にも似た暗い情熱が、その後の彼女の生きる支えであり、原動力であった。
ところで、父と兄を亡くした政子はオペラ歌手を目指し、上京する。昭和16年のことである。その東京で若き海軍中尉と恋に落ち、昭和18年初春から2人は内縁関係になった。昭和20年2月には、その中尉との間に娘も儲けた。
痩せても枯れても名家のひとり娘
そんな関係は終戦をはさんだ昭和21年5月まで続いた(中尉は昭和19年11月に戦地へ赴き、復員したのは昭和21年春)。だが入籍問題などで両家に亀裂が入り、結局別れてしまう。一粒種の女児は森田家で育てることになった。
キャバレーの歌手として働いていたのは終戦直後のことで、オペラをやれるようなご時世でもなかったのだろう。
「でも母は、そこで振り袖姿で歌っていたらしいんです。なんで振り袖なのかよくわからないんですが、たぶん落ちぶれたと見られるのがいやだったんでしょう」
痩せても枯れても名家のひとり娘というプライドがあった。そんな憂色漂う頃、政子の前に現れたのが晋三だった。
大屋晋三との出会い
当時、晋三は帝人の常務で、財界から政界への進出をもくろんでいた。そこで、大阪政界では名門とされる森田家の未亡人と、その遺児に選挙の応援を依頼する。晋三は、政子の父と交友のあった鳩山一郎の紹介状を持参して「森田先生の選挙地盤を引き継がせてください」と言ったという。このとき晋三51歳、政子とは27歳の年齢差があった。
政子の自著によれば、晋三が森田家を訪れたのは朝8時で、一旦引き上げてから夕方4時頃に再訪し、そこで政子に求婚したことになっている。文字通り、一目会ったその日から……ということになるのだが、このとき晋三にはれっきとした正妻があった。
節操がないと言ってしまえばそれまでだが、ともかく晋三の依頼は政子の自尊心を擽った。再び名門の力を見せつける絶好の機会だった。選挙戦では、政子は水を得た魚のように活躍したという。
昭和22年4月、帝人の社長になっていた晋三は参議院選に当選。翌23年10月に発足した第2次吉田内閣で商工大臣に就任する。と同時に、帝人の社長は辞任するが、政治家としてはこれ以上ない上出来のスタートだった。
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