【大屋政子の壮絶人生】幼少期の悲惨体験、父親の墓前で誓った敵討ち…極度の人間不信がもたらした尋常ならざる金銭への執着

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18歳のときに襲いかかった不幸

 政子は大正9年10月27日、代議士(政友会・当選7回)の森田政義の長女として生まれた。母トクノは大阪では鴻池家に次ぐといわれた大地主の柴谷家のひとり娘であった。政治家と富豪の娘を両親に持つ政子は少女時代から“お嬢”と呼ばれ、その出自の良さを生涯、誇りとしていた。自著にもこう綴っている。

≪婦人画報社が刊行した『全日本令嬢名鑑』には皇族をはじめ、名家の令嬢百名が紹介されていますが、そのなかに私も選ばれました。大阪からはただ一人掲載されました≫(『会う人はみんな財産』講談社刊)

 学校に通うのも車で送り迎えされ、オペラの勉強やバレエの稽古のほか、フィギュアスケートやバレーボールなどのスポーツも万能だったという。だが昭和14年、政子が18歳のときに不幸が立て続けに襲いかかる。

 父政義が狭心症で急逝すると、翌年には兄が28歳で戦病死する。その後まもなく母の実家である柴谷家も破産。それでも母トクノには、母娘が何とか食べていけるだけの資産は残ったが、政子がお嬢様暮らしを続けていけるだけの余裕はとてもなくなった。

 家長と嫡男がいなくなった家は、灯が消えたようにうら寂しい有様となる。父の取り巻きや支持者らであれほど賑わっていた家は、その父が亡くなった途端に 誰も寄り付かなくなったという。

没落への恐怖

 心細さから、残された母娘が大阪の府議会議員を訪ねたこともあった。その府議は、生前の政子の父から多大な恩を受けた人物だった。だからこそ母娘も頼りにしていたのだが、門さえ開けてくれなかった。没落した家に用はないと言わんばかりの仕打ちに、政子は悔し涙を流す。

 そして自分の惨めさに抗うように、政子は父の墓前でこう願うのである。

「どうぞ、このかたきを討たせてください」

 さらに母の先祖の墓にむかっては、

「柴谷家の再興はかならずこの私がいたします」

 と誓った。

 ――没落したらあかんねん。

 これが政子の口癖になった。

 この時期の暗転が、政子に極度の人間不信をもたらし、後の尋常ならざる金銭への執着心を植え付けたといわれる。

 登史子も言う。

「たぶんそうだと思います。母は常日頃から『信用できるのはお金だけや』と言っていましたから。私が『そんなんちゃう、ホンマの友達やったらお金なんか関係ない』と反論しても理解できなかったみたいです。終いには『母親のうちが有名やから、あんたに寄ってくるんや。あんた、その友達に騙されてるんや』って、こうでしたからね」

 また後の政子は、大勢の客人を招いてはホームパーティーを開いていたが、これも“没落恐怖症”から来るものだったようである。

「パーティーなどでワーッと人がいる中でスポットライトを浴びて、人に囲まれていないと不安だったみたい。3日家にいて何もしないでいると『没落したみたい』と言ってましたから」(登史子)

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