月給12万円で“うどんの世界”に飛び込んだ元巨人・條辺剛さん(42) 愛犬の名を店名にするつもりが…セカンドキャリアで成功した秘訣
2008年、「讃岐うどん 條辺」を埼玉・上福岡にオープン
香川には二度、三度と足を運んだ。何店舗も回った結果、「アットホームな雰囲気に惹かれて」、家族経営の小さな店に飛び込んだ。こうして、宮崎に続いて香川での修業が始まった。家賃は4万円、給料は15万円での新生活がスタートした。
「月給は15万円でしたけど、香川では食事代はほとんどかかりませんでした。3食ほとんどうどんは食べられるし、社長のご家族が天ぷらを作ってくれたり、おにぎりを握ってくれたり、家にもよく呼んでもらいましたから。現役時代と比べれば、確かに収入は大きく違いましたけど、プロ野球選手になったからといって金銭感覚も狂っていなかったし、何の問題もなかったですよ」
初めは「半年程度」と考えていた修業期間は、気がつけば1年8カ月に及んだ。麺打ちをマスターするのに半年かかり、さらに出汁づくりも学び、社長が不在のときには1週間ほど店を切り盛りした。少しずつ自信と手応えが芽生えていく。その支えとなったのが現在も條辺とともに店を切り盛りするパートナーの存在だった。
「宮崎には一人で行きましたけど、香川には今の嫁と一緒に行きました。まだ籍は入れていなかったんですけど、一緒に香川まで来てくれて、本当に感謝しかないです。香川では、僕がうどん作りを学んで、嫁は社長の奥さんから天ぷらづくりを学びました。この頃には、“ゆくゆくは関東でオープンしよう”という思いが芽生えていました」
現役時代の華やかな時期に知り合い、現役引退後の修業時代も身近で支えてくれるパートナーとともに香川を後にする。そして、彼女の実家がある埼玉県・上福岡に物件を見つけた。このときも力になってくれたのが同郷・徳島県阿南市の先輩であり、ジャイアンツ時代には一軍ピッチングコーチも務めた水野雄仁だった。
「水野さんから、“店の名前はどうするの?”と聞かれるまでは、愛犬の名前をとって、《讃岐うどん 麦》とするつもりでした。でも、それを話すと水野さんからは“バカか、お前は。まがりなりにもジャイアンツで野球をやってきて、《條辺》という名前が、みんなに知られているんだから、それを使わない手はないだろう”と叱られました。そして、“ダメ元でいいから、監督にお願いしてみよう”と言ってくれたんです」
水野が口にした「監督」とはもちろん、長嶋茂雄だ。水野の行動は早かった。
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