條辺剛さん(42)が回想する巨人投手時代…1年目の秋キャンプで丸坊主になった事情、怪我との戦い、水野雄仁からされた運命の提案

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プロ2年目から痛めていた右肩が、さらに悪化の一途を

 01年には46試合、翌02年には47試合に登板。リードしている場面で登板し、セットアッパー、クローザーへとつなぐ重要な役割を任されることになった。プロ入り時に「2年やってダメなら打者に転向する」と考えていた條辺はもちろん、首脳陣にとっても嬉しい誤算となった。しかし、この時点ですでに右肩には異変が起きていた。

「01年の6月、7月頃にはすでに肩を痛めていました。自分にとっては初めてのチャンスだったので、“肩が痛い”とは言えなかったんです。中継ぎの先輩たちに相談すると、“早く伝えた方がいい”と言われているのに、それでも言えなかった。自分の居場所を失ってしまうことへの焦りですよね。すべて自分のせいなんですけど……」

 痛み止めの注射を打ちながら、だましだまし投げ続けた。痛みのために右肩が上がらず、片手で髪を洗うこともあった。球速は7~8キロは落ちてしまっていたが、炎症が収まればまた投げられるようになり、そして再び炎症に悩まされる。その繰り返しだった。満足のいく投球ができなかった。「もう一度、身体を作り直そう」と個人トレーナーと契約し、一からトレーニングに励んだ。右肩以外は万全な状態になった。だが、肩の痛みはどんどん激しく、そして強くなっていく。

「右肩以外のコンディションは万全なんですけど、最後まで球威は戻らなかったですね。03年は9試合、04年は4試合、どんどん登板機会も減っていって、“そろそろかな?”と覚悟はしていましたね」

 條辺が口にした「そろそろかな?」というのはもちろん、「戦力外通告」のことだ。04年オフ、覚悟は決めていたものの、通告はなかった。もう1年、チャンスを与えられたのである。

「05年はそれまででいちばん練習しました。でも、結局は肩の状態は変わらず、この年も4試合に登板しただけでした。そしてこの年のオフ、球団の査定担当の方に呼ばれて、“もう今日からユニファームを着なくていいぞ”と言われました」

 その後、「自分に区切りをつけるために」トライアウトを受けたものの、当日にそれまで一度も経験したことのないギックリ腰を発症。納得のいくピッチングではなかったものの、「これも何かの合図なのだろう」と、24歳の秋で引退を決めた。

「戦力外通告を受けたその日に水野さんに報告したら、自宅に呼ばれて食事をごちそうになりました。そして、“これからどうするんだ?”と聞かれたので、まずはトライアウトを受けることを伝えました。そして、トライアウト後にもまた水野さんは相談に乗ってくれて、そのときに“飲食店をやりたい”と伝えました」

 小学生の頃の卒業文集に「飲食店をやりたい」と書いていた。幼い頃の夢が再びよみがえる。このとき力を貸してくれたのが、またしても「同郷の先輩」だった。條辺が飛躍するきっかけとなったフォークボールを授けてくれた水野が静かに口を開いた。

「オレの知り合いが飲食をやっているんだけど、そこに行ってみるか?」

 何も迷うことはなかった。業種も、地域も、待遇も関係なかった。條辺は「はい!」と力強く首を縦に振った。紹介されたのは、まったく予想もしていなかった宮崎市のうどん店。最高年俸3400万円から、月収12万円への転身だった――。
(文中敬称略・後編【月給12万円で“うどんの世界”に飛び込んだ元巨人・條辺剛さん(42) 愛犬の名を店名にするつもりが…セカンドキャリアで成功した秘訣】に続く)

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)ほか多数。

デイリー新潮編集部

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