條辺剛さん(42)が回想する巨人投手時代…1年目の秋キャンプで丸坊主になった事情、怪我との戦い、水野雄仁からされた運命の提案

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フォークボールをマスターし、2年目に覚醒

 飛躍のときはプロ2年目に訪れた。当時、一軍ピッチングコーチであり、條辺と同じ徳島県阿南市出身の水野雄仁が口にした「何か落ちるボールがほしいな」というひと言が、彼にとっての福音となったのだ。

「2年目はファームでローテーションをしっかり守りたい。そんな思いだったんですけど、1軍キャンプに帯同することになって、水野さんから“落ちるボールをマスターしろ”と言われて、フォークボールを教わりました。当時はストレート、スライダー、緩いカーブ、そしてツーシーム系のシュートを投げていましたけど、このフォークがうまくハマってくれたんです」

 人差し指と中指でボールを挟んで投じられるフォークは條辺の大きな手に、そして真上から投げ下ろすピッチングフォームには最適の変化球だった。ルーキーイヤーに身体作りに励み、球速も10キロ以上アップしていた。150キロを超えるストレートを身につけ、さらにフォークで面白いように空振りをとれるようになった。

 長嶋の後を受け、この年から監督となっていた原辰徳からの期待も大きくなる。投手として、10代での開幕一軍切符は1987年の桑田以来の快挙だった。

「長嶋さんは、畏れ多くて近寄りがたい存在でしたけど、原監督は兄貴的な雰囲気で選手サロンにいる時間も長くて、いろいろな選手と話すように意識していたようでした。監督もまだ40代前半でしたし、僕としてもすごく話しやすかったです」

 長嶋が退任した後に行われた秋季キャンプでのこと だった。條辺は監督就任が決まっていた原から大目玉を食らっている。

「1年目の秋、僕、パーマをあててキャンプに臨んだんです。ヒゲは禁止だということは聞いていたけど、髪型については何も言われていませんでした 。それで、初日のミーティングでいちばん前に座っていたら、いきなり原さんに呼ばれて、“明日までにお前の考えているいい頭にしてこい”って言われたんです」

 原が口にした「いい頭」とは何か? 先輩に相談すると、誰もが「決まってるだろ」と言いながら、手に持ったバリカンで坊主にする仕草をした。

「次の休みの日に坊主にしました。そうしたら、原さんも“いいじゃないか~”と言ってくれて、“2~3キロは、ボールが速くなっているぞ!”と、何度も坊主頭をなでられましたね(笑)」

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