條辺剛さん(42)が回想する巨人投手時代…1年目の秋キャンプで丸坊主になった事情、怪我との戦い、水野雄仁からされた運命の提案
2023年も12球団で多くの選手がユニフォームを脱いだ。指導者や解説者など、野球に関係した仕事に就く人もいるが、そうではなく、異業種の世界に飛び込む人もいる。「元プロ野球選手」という誇りとプライドは、第二の人生でどのような効果をもたらすのか。ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、新たな人生をスタートさせた元プロ野球選手に迫る新連載の第2回は、読売ジャイアンツで投手として活躍した條辺剛氏(42)。埼玉県ふじみ野市でうどん店を営む條辺氏の近況は…。(前後編の前編)
ジャイアンツから、うどん店の店主に転身
毎朝午前3時半に起床する。ゆっくり風呂につかって身体を目覚めさせてから、隣駅にある店舗に着くのは4時半頃。周囲はまだ闇に支配されている中、およそ2時間半かけてその日の仕込みをする。この間に麺を打ち、出汁を確認し、数種類の天ぷらを用意して、ようやく7時の開店を迎えると、すぐに通勤客でにぎわいを見せる。通勤ラッシュがひと区切りしても、すぐにお昼時が訪れる。息つく暇もない。
この間、ずっと立ちっぱなしだ。ゆっくり休憩する間もなく、午後3時の閉店時間までほぼノンストップで働き続ける。店を閉めてからは、店内の清掃、食材の発注、売り上げチェック、翌日の仕込みなどやることは多く、店を出るのは午後6時、あるいは7時になることもある。かつて、読売ジャイアンツで活躍し、現在は「讃岐うどん 條辺」を切り盛りする條辺剛は、こんな生活をすでに15年も続けている――。
1999年、徳島県立阿南工業高校(現・徳島県立阿南光高校)からドラフト5位でジャイアンツ入りした。右も左もわからないままに上京し、長嶋茂雄監督率いるスター集団の真っただ中に飛び込むこととなった。
「周りはすごい人ばかりでしたね。見たことないような球を投げたり、打ったりしている人たちでしたから。高校時代、6球団から調査書が届いていたんですけど、ジャイアンツ以外のチームはすべてバッティングを評価されていて、“打者として獲得したい”ということでした。でも、ジャイアンツだけが“どっちをやりたい?”と言ってくれたので投手を希望しました。それで、“2年やってダメなら、打者に転向しよう”ということで、投手として頑張ることになりました」
当時のジャイアンツには、1990年代を牽引した桑田真澄、斎藤雅樹、槙原寛己が在籍しており、FAで移籍した工藤公康もいた。さらに20代の上原浩治、高橋尚成、岡島秀樹などなど、そうそうたるメンバーが投手陣に名を連ねていた。
「プロ入り直後はホームシックになったけど、まだ高校を卒業したばかりだったので、みなさんすごくかわいがってくれましたし、先輩方になじむのは早かったですね。1年目の8月ぐらいには、“ファームでならやれるかも?”という気にはなってきました」
條辺のプロ初登板はプロ1年目の2000年9月29日のシーズン最終戦で、いきなり先発を託されることになった。結果は3回3失点で黒星を喫するものの、「来季に向けて1軍の雰囲気を経験させておきたい」という、首脳陣からの期待の表れでもあった。
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