「ちょっとキザですが…」でニュース番組を変えた「ミスターNHK」磯村尚徳さん、「小沢一郎氏」に担がれて都知事選にも出馬【2023年墓碑銘】

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 長く厳しい“コロナ禍”が明け、街がかつてのにぎわいを取り戻した2023年。侍ジャパンのWBC制覇に胸を高鳴らせつつ、世界が新たな“戦争の時代”に突入したことを実感せざるを得ない一年だった。そんな今年も、数多くの著名人がこの世を去っている。「週刊新潮」の長寿連載「墓碑銘」では、旅立った方々が歩んだ人生の悲喜こもごもを余すことなく描いてきた。その波乱に満ちた歩みを振り返ることで、故人をしのびたい。
(「週刊新潮」2023年12月28日号掲載の内容です)

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 テレビのニュースといえば、原稿をアナウンサーが一字一句間違いなく読むものだった。1974年開始のNHK「ニュースセンター9時」で初代のキャスターを務めた磯村尚徳氏は、視聴者に語りかけるようにニュースを伝えるスタイルを打ち出した。磯村氏はアナウンサーではなく記者。自分の言葉でわかりやすく語る工夫を重ねた。

 当初、視聴者はニュースらしくないと戸惑った。話し方が従来とあまりにも違い、磯村氏の姿も気になる。カメラに正面から向き合わず斜に構えた姿勢で、肘をデスクの上に乗せていた。

 磯村氏が番組の終わりに「おやすみなさい。また明日お目にかかります」と言うのも当時は斬新で賛否両論。「なれなれしい」「この後のNHKの番組は見なくていいのか」と苦情が入る。「ちょっとキザですが」「私事にわたって恐縮ですが」と断って、ニュースに関連して自身や家族に関することを話すのも、一言多いと言われながらも評判に。磯村氏の広い襟のスーツやネクタイもおしゃれだと注目され、「ニュースセンター9時」は人気番組となった。

 産経新聞の記者出身で、フジテレビなどでニュースキャスターも務めた俵孝太郎氏は振り返る。

「磯村さんはNHKのニュースの語り口を変えました。意見を言うことは別だとわかっていた。NHKは受信料を得ており、嫌なら見るな、とは言えません。磯村さんは角を立てる人ではない。万人に嫌われない存在だったのです。NHKの品格を落とさなかった」

マイクを持って話せる記者

 29年、東京生まれ。父親は陸軍の軍人で大使館付の武官を長く務めた。

 53年、学習院大学を卒業、NHKに入局。外交官を志していたが現実的に難しく、海外で働ける仕事は商社か報道機関と考えたという。

 当時、NHKでフランス語が堪能な者は稀有(けう)で、すぐに外信部で道が開けた。58年からパリ特派員、さらにワシントン支局長を経て、71年に外信部長となる。

 マイクを持って話せる記者として重用された。「パリのマロニエの木陰には、今日も静かに雨が降っています」のように何げない風景から臨場感を伝えた。

 こうして「ニュースセンター9時」のキャスターに起用された。3年間務め77年、視聴者から惜しまれつつ交代。ヨーロッパ総局長としてパリに再び赴任した。

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