パンツ1枚、車を運転しないのには理由がある…ハリウッドザコシショウが明かす「笑い」への矜持

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 芸人が自腹で地上波テレビの放送枠を買い取り、自分のやりたい企画を放送する――この異例ともいうべきチャンレンジに成功したのは、ハリウッドザコシショウ(49)。2023年の締めくくりとして、放送枠だけでなく製作費までも全額出資した特別番組「提供ハリウッドザコシショウ」が12月30日にtvk(テレビ神奈川)で放送される。それにしても、どういう経緯で実現したのか、話を聞きに伺った。「笑い」に対して常に真剣で全力投球の、ハリウッドザコシショウの熱いメッセージである。

長年の夢がかなう

 ハリウッドザコシショウといえば、21年から3年連続で大会審査員を務める「R-1ぐらんぷり」16年度王者であることは周知の事実だが、その名前が世に出たのは07年からTBS系列で放送された「あらびき団」だった。

「放送開始から出演させてもらっていたのですが、2年目にメンバー入れ替えで時間が空いたんです。それで自分で動画を作って流すことにしました。アメーバブログの次はYouTubeに移って。内容は、自分で面白いと思ったこと。もともとダウンタウンの松本人志さんがピンでやっていた『一人ごっつ』(フジテレビ系)という番組が大好きだったんですよ。自分でもあんな番組をつくってみたいなと思っていましたから、まずは動画でやりたいことをやっていました」

 R-1王者になり、多くのバラエティ番組に出演するようになると、ますます「企画も構成もすべて自分が作る」番組を作りたいとの思いが強くなった。有名な番組に出ることも大事だが、その全てが自分に合うものではない。収録中も、自分ならこうするのにと、アイデアが次々と出てくる。しかし、作家として番組に参加しているわけではないので、主張することはできない。ではどうするか……ハリウッドザコシショウが凄いのは、単なる「夢」や「希望」、「憧れ」で終わらせるのではなく、その実現に向けて実際に行動することだ。

「まず、自分で企画書を書いて、知り合いのディレクターさんや放送作家さんに“どうかな?”と見せたんです。面白いね、という反応はあるのですが、会議で通らなかったとか、スポンサーがつかなくてとか…。それでキー局がダメなら独立U局や地方局に話をしようと。それでtvkさんに話をしたんですけど、やっぱりスポンサーが…となりましてね」

 それなら、スポンサーを俺がやったらいいのか? ――ふと、言葉が出ていたという。

「そう言ったら、即、通ったんですよ。『あらびき団』のころから随分と時間がかかりましたけど、ようやく自分の夢が実現します。テレビ局や制作サイドから“こういう番組をやらない?”ではなく、芸人がやりたいことをやる。でもそんな番組、待っていても絶対に来ないですから。自分から見つけて、探して、取りに行くしかないんです。この番組はCMなし、55分間ぶち抜きです」

 内容はザコシショウファンにはたまらない内容から、新ネタまで盛りだくさん。「もし自分が不祥事を起こしたら、謹慎明けのスタジオでどう振る舞うかをシミュレーション」や、本人のイメージには合わない、お色気ネタまであるという。

「12月30日の25時からという放送時間もいいですよね。本当に偶然、この枠が空いていて、ラッキーでした。視聴率のことを考えると、23時台の方がいいのかもしれないけど、特別感があるというのかな。ほとんど大みそかというのもいいですよ」

 というのも、ハリウッドザコシショウには「25時台」という放送時間帯に、忘れられない番組があり、お笑い芸人を志したルーツがあるからだという。

お笑い芸人になるまで

 彼が影響を受けた芸人は、ビートたけし、ダウンタウン、そして竹中直人。その竹中が89~90年に、TBS系の深夜に放送していたのが「東京イエローページ」という、コントとトークを中心にした番組だ。わけても竹中の「突き抜けたキャラ」が隠れファンを多くつかんでいた。「ショスタコビッチ 三郎太」「加羅ん部留 亀太郎(からんぶる かめたろう)」など、色々な芸名を名乗る男が、コーナータイトルでもある「クイズ、そっちの方がスゲェ~っ!」と絶叫し、意味もなく動き回るのだが、今のザコシショウの芸風に重なるところがある。

「学生の時にハマりましたね。こういう番組をやりたいと真剣に思っていました。ただ、僕の周りには、そういうギャグをやるとかお笑いをやるという空気がなくて。一人っ子で母子家庭だったので、家ではずっと一人で過ごすんです。テレビは漠然と見るのではなく、外ロケから入ってスタジオでトークをやって……あぁ、こういう感じは好きだなとか、これはちょっと違うな、という見方を自然としていましたね。あと、ラジカセに自分の声を吹き込んで遊んでいました。そのうち、たとえば“おなら”と何回も口調や語調を変えて録音して、前後をカットしたり、つなげたりして編集する。スピード感のある“おなら”の連発になったり、語尾の長い“おなら”になったりして。それを友だちに聞かせて一緒に笑っていました」

 早くから番組作りや編集センスがあったらしい。進学した静岡市内の工業高校で知り合った相方と1992年、大阪吉本総合芸能学院(NSC)に進学する。同期にはケンドーコバヤシ、陣内智則、中川家などがいた。

「高3の時、進路指導の先生に、お笑いをやりたいのでその学校へ行きたいと相談したんです。工業高校なので、卒業後は圧倒的に就職する生徒が多いんですが、まだネットもない時代にその先生がわざわざ調べてくれて、NSCの案内を持って来てくれたんです。普通は反対しますよね。母親? 最初は反対していましたが、僕が絶対になりたいと譲らなかったので、最終的には行かせてくれました」

 相方と一緒に大阪に。「G★MENS(じーめんす)」というコンビを組んだが、大阪で手痛い洗礼を受ける。全くウケなかったのだ。ザコシショウ曰く、当時の大阪では、大阪弁を喋らないと客はネタも聞いてくれない。既に東京で売れていた芸人が大阪のテレビ番組でネタをやっても容赦ない。静岡弁でネタをやっていた二人も同様だった。

「それ以上に、吉本時代の10年間は、笑いに真面目に取り組まず、すっかり遊んでしまったんです。芸は誰かが教えてくれるものではなく、盗むもの。そんな基本も理解せず、ただダラダラと過ごしてしまった。それでも先輩たちがイジってくれるので、自分たちは面白いんだと勘違いしていたんですね。そうこうするうちにケンコバや陣内たちはどんどん売れだして……。何でもそうですが、失敗して崖っぷちに立たされないと、本気で自分の進む道や芸を考えないものです」

 吉本を離れ、コンビを解散。2002年にハリウッドザコシショウの芸名を名乗り、ピン芸人として活動を始めた。それからブレイクするまでは前述の通りである。

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