「いまも墓に石を投げられます…」時代劇きっての敵役「吉良上野介」は本当に“悪人”だったのか? 知られざる「忠臣蔵」の謎

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「吉良上野介は刀に手をかけなかった」

『忠臣蔵』の作中で吉良上野介が“悪役”として描かれているのはご承知の通り。吉良からの賄賂の支払い要求を断った浅野が、陰湿ないじめを受けたり、「鮒侍」などと罵倒されたりしたことに腹を立て、江戸城の松の大廊下で感情を抑えられずに吉良を斬り付けたとストーリーは進んでいくが……。

 実際は「これらのほとんどがフィクションで、浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた理由については、未だに明らかになっていないんです」(孝久さん)という。

「年末のドラマでは、強面の俳優が演じることが多い吉良上野介ですが、吉良家はもともと源氏の名家として名を馳せ、室町時代には足利御三家筆頭の家柄。事件が起こった当時も、吉良家は天皇の使節を接待するための作法を、各大名に教える“高家筆頭”の立場にありました。大名からはいまで言う“授業料”を受け取りながら、厳しく指導を行っていたそうなんですけど……」

 つまり、この“授業料”を賄賂と誤解し、厳しい指導をイジメと捉えられたのかもしれない、というわけである。

 ただ、「江戸城松の廊下事件」(1701年3月14日)を巡っては、旗本の梶川与惣兵衛による「あの時、吉良上野介は一切刀に手をかけなかった」という証言の記録や、天皇の勅使が「松の大廊下で大騒動が起きたと聞いている」という書簡を京都に送ったことは明らかになっているものの、浅野内匠頭が吉良上野介を斬った理由については、ほとんど資料が残っていないという。

 みすずさんによれば、

「改めて考えてみると、徳川幕府がもう少し丁寧に浅野内匠頭を取り調べてから処罰を下せばよかったんでしょうけど、事件後すぐに切腹させてしまった。結果として、これが大きな判断ミスだったように思います。吉良が刀を手にしていないことから“喧嘩”に該当しなかったという可能性もありますが、『喧嘩両成敗』が原則だった当時の世の中で、事情を知らない庶民は“不公平”に感じたのかもしれません。また、情報が少ないことでかえってさまざまなフィクションを作りやすくなってしまった気がするんです。一度お芝居などで人気の作品になってしまうと、それらのイメージを払拭するのはなかなか難しいですからね」

「赤穂事件」に残る疑問点

『松の廊下事件』から約1年半後の1702年12月14日、吉良邸に集った大石内蔵助をはじめとする47人の赤穂義士は、本所松坂町の吉良邸(現在の墨田区両国・本所松坂町公園)に侵入して吉良氏を討ち取ると、その首を掲げながら浅野内匠頭の眠る泉岳寺まで行進し、吉良の首を墓前に供えて主君の無念を晴らす――。これが『忠臣蔵』の一般的なストーリーだが、討ち入りをされた側にとって、赤穂事件はどのようなものだったのだろうか。

 さぞかし大騒ぎが記録されているのかと思いきや、意外にも上杉家に残る文書には「屋形様(米沢藩主 上杉綱憲)は、赤穂浪士吉良邸討ち入りの報を受け、ご不快に思われたが取り乱すようなことは無く、普段と変わらぬ様子であった」と書かれている。また吉良邸では「討ち入りがあった後、夜中に門前にきて、浅野の残党どもが押し込むぞ、と言ってくる者もいる」などデマに悩まされた様子も書き残されている。だが、孝久さんは言う。

「『忠臣蔵』は戯曲であり、『赤穂事件』は史実です。その間に大きな乖離があることを皆さんに知って頂きたい。もう一つ『忠臣蔵』が大人気となることを黙認した幕府の存在も大きいですね」

 さらに、

「このような大騒ぎを起こした後に、本所から泉岳寺まで堂々と首を掲げて4時間も行進できたことが不思議ですし、別の視点では江戸の街で騒乱を起こすということは、徳川家に歯向かうことと同じこととして捉えられる可能性もある。“家の立場が悪くなるようなことをわざわざ積極的にやるのかな?”と個人的には思うんです。この事件の後、間も無く歌舞伎の演目に加えられ人気を博していることからも、当時の幕府側に“この機会に浅野家と上杉家を潰してしまおう”と考えている人がいたんじゃないかとか、さまざまな思惑があったのではないかと思っているんです」

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