「いまも墓に石を投げられます…」時代劇きっての敵役「吉良上野介」は本当に“悪人”だったのか? 知られざる「忠臣蔵」の謎
2023年も暮れが押し迫っているが、年末のこの時期に放送される時代劇の風物詩といえば『忠臣蔵』だろう。江戸城の松の大廊下で赤穂藩主の浅野内匠頭長矩(以下、浅野内匠頭)が、吉良上野介義央(以下、吉良上野介)に対して刃傷に及び、浅野内匠頭は切腹させられることに。主君の無念を晴らすため、大石内蔵助ら47名の赤穂浪士が吉良邸に潜入して敵討ちをする物語である。だが、世の中に広く語り継がれているストーリーには史実と異なる点も存在しているようだ。【白鳥純一/ライター】
【写真を見る】上杉子爵家9代目当主は「忠臣蔵」に何を思うのか。上杉家に伝わる貴重な品々も
吉良家と深いつながりを持ち、子爵家(米沢新田藩)9代目当主としてさまざまな講演を行う上杉孝久さんと妻のみすずさんに、“吉良上野介の視点”で見た赤穂事件についてお話を伺った。
吉良上野介の華麗な系譜
時代劇では「浅野内匠頭をイジめる嫌味な人物」として描かれることが多い旗本・吉良上野介の歴史を遡ると、上杉謙信、足利尊氏、藤原鎌足といった“歴史上の超有名人物”との色濃い関係性が浮かび上がってくる。
まず孝久さんは、上杉家の歴史と、吉良上野介との関係について言及する。
「元々は藤原家だった上杉家の始まりは、藤原重房が上杉姓を名乗った1252年に遡ります。重房の孫娘が足利家に嫁ぎ、子供の足利尊氏が室町幕府の初代将軍になったため、上杉家は関東管領に就き、一時は越後から伊豆半島周辺までを治める大勢力を築いたのですが、北条氏の台頭によって、徐々に勢力圏が奪われていきました。そんな危機的な状況で上杉家の家督を譲られた長尾景虎が、後に上杉謙信を名乗って上杉家の再興に多大な貢献をすることになるんです」
その後、時は流れ、上杉家の姫と吉良上野介の間に生まれた綱憲が、上杉家の養子となり、4代目を継いだ。つまり、姓は異なるが、上杉綱憲にとって吉良上野介は父親にあたるのだ。
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