「本家の組員は“エリート”」「組長は滅多に顔を見せない」 カタギのための「令和の山口組」入門

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 一般人を巻き込む抗争事件などが以前より減ったことで、ニュースでの扱いは小さくなったものの、暴力団関連の事件、騒動は決して少なくない。最近では、活動がより見えづらくなったという指摘もあり、決してカタギの善良な市民にとっても無関係な存在とは言えないだろう。

 この暴力団の最大の組織が、山口組であることは多くの人の知るところ。しかし、その成り立ちや現状という「基礎知識」は案外、知られていない。

 たとえば、現在の純粋な「山口組本家」の組員が100人にも満たない、といった事実は意外に思われるのではないか。

 長年、暴力団の取材を続けてきたフリーランスライターの山川光彦氏の著書『令和の山口組』から、依然、日本の闇社会に大きな影響を与えているこの巨大組織についての基礎知識を見てみよう。

 前編の今回は、組織の成り立ちや構成など「超基礎」をご紹介する。

(以下は同書をもとに再構成したものです)

(1)もとは「カタギ」の「組」だった

 山口組の創始者は、その名も山口春吉と言います。

 山口は兵庫県沖の瀬戸内海に浮かぶ淡路島で漁師として生計を立てていましたが、貧しい漁師暮らしに見切りをつけ、職を求めて神戸へ移ります。

 春吉が神戸に渡った時は25歳。日露戦争の直後で日本有数の貿易港として活況を呈していた神戸には、周辺の農漁村からは春吉のように一攫千金を夢見る人々が神戸に多数、流入していました。

 当時ほぼすべてが人力による、港での荷揚げという厳しい労働環境に置かれた日雇いの労務者には、彼らを統率する強力なリーダーが必要でした。なにしろ狭くて蒸し暑い船倉から石炭や重機を人力で運び出すのですから、腕力自慢の荒くれ者でないと務まりません。春吉は労働者を束ねる頭領として信用を集め、頭角を現していきます。そして、荷揚げ人足を束ねる「組」として「山口組」を旗揚げします。この「組」は、土木業に端を発する大林組とかの「組」と同じ意味あいでした。

 山口組の始まりは正業の事業であり、最下層の労働者のなかから立ち上がった集団だったことは特筆に値します。山口組が「近代ヤクザの典型」といわれるのもそのためです。

 以来、山口組はミナト神戸での荷役と市場での運搬、春吉が愛好し庶民の数少ない娯楽として近隣から歓迎された浪曲や相撲の興行という二枚看板の事業を全国にまで拡大、成長させていきます。これが、敗戦後に山口組が急成長する経済基盤となったのです。

(2)名刺に「山菱」の代紋を使えるのはたった52人

 6代目山口組の組員は「準構成員」を含め現在8100人(正構成員は3800人、2022年末)いるとされていますが、「山口組本家」の組員は、たった52人しかいません。

 名刺に6代目山口組の「山菱」の代紋を使用できるのも彼ら一握りの“エリート”だけです。
 
 本家の組員とは、本家親分(現・司忍組長)と直接、親子、舎弟(弟分)の盃を交わし、擬似的血縁関係で結ばれた直参(じきさん)とよばれる、若い衆=直系組長を指します。この直系組長がそれぞれ自分の組に盃を交わした若い衆を率いて活動し(2次団体)、さらに2次団体の上級組員はみずからの組に若い衆を抱える。このようにピラミッド式に3次、4次団体と裾野が広がっていき、幾層にも階層をなしているのです。

 現在の山口組は取締役会にあたる「執行部」(現在、10人)がトップの承認を得て運営にあたっています。そのなかでも子分の「長男」にあたる「若頭」の権限は絶大で、企業なら、最高経営責任者(CEO)にあたる役回りです。

(3)組長は滅多に顔を見せない

 組ごとの差配をするのが若頭とそれを補佐するメンバーなのだとしたら、組長は日頃、何をしているのでしょう。

 月に1回、総本部である神戸市内の「本家」に全国から直系組長が参集して開かれる「定例会」で組長が一堂の前に姿を現すのは、会の冒頭だけです。もとよりトップが訓話を垂れることも何かを協議することもなく、子分たちを前に「雲の上の人」である親分が「お目見え」することに意義があるとされます。天下の山口組の直参でいられる“栄光”を親分に感謝する場というわけで、組織の結束が目的です。

 また、執行部が決めた人事や方針は組長の承諾を得る必要があります。ちょうど、国会で議決した人事を天皇が認証するのに似ています。天皇もそうですが、組長は象徴的な権威であり、身内にあっては「元気で居てくれるだけでありがたい」、組の束ねとなる精神的な指導者といっていいでしょう。

 対外的には、組織の代表者ですから、外交儀礼の場で雲の上の組長が「降りてきて」客人の挨拶を受ければ、最上級のもてなしとなります。

(4)3代目のビジネス的手腕が勢力拡大の要因だった

 中興の祖とされる3代目の田岡一雄といえば、一般には東映任侠映画『山口組三代目』(1973年)で高倉健が田岡役を演じて大ヒットしたことでご記憶の方もいるでしょう。
 
 田岡が組織原理として打ち出したのは「事業と軍団の分離」でした。これが敵対する警察当局からも「先見的」な戦略と称されたのは、配下の「企業舎弟」に港湾労務者を管理させる一方で、これら実業部門で稼いだ資金を抗争部門に惜しみなく「投資」。それが、山口組が進出する先々の地元勢力の度肝を抜く、組員の「大量動員」方式を確立することに寄与したからです。
 
 山口組は「全国制覇」へとひた走り、60年代には日本最大の暴力団組織へと駆け上がるに至ります。主に昭和年間に業界の内外に築かれた好戦的な「山菱」ブランドが、固有の経営資源となっているのです。

(5)バブル崩壊後、収入は右肩下がりに

 山口組は、東京オリンピックを機に本格化する警察の「第1次頂上作戦」のあおりを受け、港湾と興行の正業分野での傘下企業の大半を失います。ただ、組の息のかかった者が実質的に経営する倒産整理、金融、不動産、土建、解体業など「フロント企業」という形態で首都圏を含め列島各地への進出はむしろ加速したのです。
 
 バブル景気華やかなりし頃は、「地上げ」を含めた土地開発や入札調整、仕手筋と手を携えての株価操作など、大型の「民暴」(民事介入暴力)が盛行しました。この分野でも、全国区の山口組の暴力イメージが、取引の障壁となる相手を黙らせるのに多大な威力を発揮したのです。

 もとより、恐喝、博打(ノミ行為も)、用心棒代(みかじめ料)、薬物取引など、伝統的な食い扶持も維持されてきたことは言うまでもありません。

 もっとも、バブル崩壊後の1991年に暴力団対策法がつくられ、暴力団排除条例が全国的に実施された2011年代以降、彼らの存在は一般社会から切り離されていくようになりました。山口組も例外ではなく、シノギ厳冬の時代を象徴する事件が相次ぎます。
 
 2019年に、息子が経営する尼崎市の鉄板焼き店を手伝っていた神戸山口組の幹部が、「6代目」系元組員に自動小銃で射殺されましたが、この幹部はシノギに困り、借金でもあったのか組織から脱退することも許されず、実質的に店の経営で生活していたようです。

「6代目」にしても事情は同じで、近年、関西地方を荒らし回っていた高級車窃盗団が摘発を受けましたが、主犯格は「6代目」傘下組織の組長でした。その組織は名門テキヤの系譜を継ぐ名跡の傘下だったのですが、「暴排」で祭礼からテキヤ系組織が排除されたこともあり、組織ごと窃盗団に鞍替えした模様です。

 困窮に陥っているのはなにも正業に関してだけではなく、最近では、組員の生活に直結する電気・ガス・水道などライフラインにも規制が及ぼうとしています。

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 後編【「首相官邸に暴力団組長が出入りしていた時期も」 カタギのための「山口組」入門】では、芸能界とのつながり、政界との深い縁などについてご紹介する。

山川光彦(やまかわ・みつひこ)
出版社勤務後、フリーランスライター。週刊誌、書籍などの執筆と編集に携わり、2022年「週刊新潮」に集中連載した「異端のマネジメント研究 山口組ナンバー2『高山清司』若頭の組織運営術」が話題になった。『令和の山口組』が初めての著書となる。

デイリー新潮編集部

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