【元巨人投手・林昌範さん】「幻の工藤監督」でDeNAへ移籍、引退後、自動車教習所の取締役になってフロントから学んだことがどう役立ったか

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「元プロ野球選手に何ができるんだ?」という冷ややかな目

 ベイスターズには12年から17年まで、6年間在籍した。左肩、左ひじに爆弾を抱えつつ、中継ぎ投手として登板機会を与えられ、満身創痍の中でチームを支えた。ジャイアンツ7年、ファイターズ3年を加えると、実に16年にわたるプロ生活となった。

「ラミちゃん(アレックス・ラミレス)が監督になってからの最後の2年間は、監督が設定していた《143キロ》という球速目標に達することができずに一軍に上がることができませんでした。結局、そのまま引退することになったのは悔しかったけど、目標を数値化することは、ある意味では公平だし、自分でも納得することはできました」

 戦力外通告後、マツダスタジアムで行われたトライアウトに参加したものの、どこからもオファーはなく、広島から帰りの新幹線車内でユニフォームを脱ぐことを決断した。全く後悔はなかった。そして、第二の人生を真剣に考える時期が訪れたとき、父から連絡が入った。

「長い間、父には会っていなかったので、昔はあれだけ 背筋が伸びていたのに、70歳を過ぎておじいちゃんになっていたことに驚きました。このとき父から、“もう体力的にきつくなってきた。どうか、私の後を継いでくれないか?”と言われました。本当は大学に通って、人間の身体について学ぼうと思っていました。すでに早稲田大学に通う手続きも済ませていました」

 林の父は、千葉・船橋市で半世紀以上も続く自動車学校を経営していた。妻との相談の結果、「週に一度は大学に通う」という条件で、父からの申し出を受けることにした。

「17年のオフに現役引退を決めて、18年1月4日の仕事始めではもうみなさんの前であいさつをしました。僕が子どもの頃から知っているスタッフの方が何人もいましたけど、いきなり取締役として入社したので、周囲からは“元プロ野球選手に何ができるんだ?”という、冷ややかな目で見られていたことはハッキリと覚えています。いや、今でもそんな目で見られているのはよく理解していますけどね(苦笑)」

 このとき林は、DeNAに移籍した時のことを思い出したという。

「あのとき、僕たちにファンサービスを求めたスタッフの方たちも、自分たちなりにできることを必死に求めていたんだと思います。僕はDeNAに6年間在籍しましたけど、球団スタッフはいつも、“僕は野球は詳しくないんですけど……”と言いながらも、新しいことを始めようとしていました。まさにこのときの僕が同じ立場でした。“僕は自動車学校のことは詳しくないですけど……”という状況の下、すべてを始めていくことになりました」

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