林昌範さんが回想する「巨人時代」 飛躍のきっかけは阿部慎之助の座学 いきなり投げたフォークで名選手が空振り「意外といいかも」

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ジャイアンツからファイターズ、そしてベイスターズへ

 05年からは中継ぎに転向し、リリーフ陣の一角として存在感を誇った。しかし、07年シーズン途中には左ひじを故障。痛みをこらえて投げ続けた結果、翌年には左肩も負傷してしまう。投げたくても投げられない。忸怩たる思いでテレビ中継を見つめる日々。

「当時、山口鉄也と越智大祐がリリーフで台頭し始めていました。二人とも同級生なんですけど、彼らがバリバリ活躍している姿を見て、“あ、自分の居場所を取られちゃったな……”と感じたことを覚えています。ある日、球団の方から、“他球団に興味はないのか?”と聞かれたこともありました。それで、“興味あります”って答えたんです……」

 こうして、08年オフ。ファイターズへのトレードが決まった。

「正直に言えば、“ジャイアンツを見返してやる”という思いが強かったですね。痛み止めを飲みながらのピッチングでしたけど、交流戦でジャイアンツと対戦したとき、阿部さんとか、(高橋)由伸さんとか、お世話になった人を相手に投げるのは楽しかったです」

 試合後、林は「僕のボールはどうでしたか?」と、阿部に電話をした。阿部は、怒気を含んだ声で応じた。

「お前な、人が三振を食らっているのに、“大したボールじゃなかった”なんて言えるわけないだろ。いいボールだったよ。全盛時に戻っているよ」

 もっとも、ファイターズには、わずか3年の在籍となった。移籍初年度の09年には46試合、10年には36試合も登板したにもかかわらず、11年はわずか5試合の登板に終わっている。左肩、左ひじが悲鳴を上げた……からではない。

「移籍した09年に、球団の方から、“宮西の面倒を見てやってくれ”と言われました。要は、戦力というよりも宮西のフォロー役としての役割を期待されていたんでしょう。11年は大きな故障もないのにほとんど出番がなく、そのままチームを去ることになりました」

 林の言葉に出てきた「宮西」とは、入団から14年連続で50試合に登板し、歴代最多ホールド記録を更新中の宮西尚生のことである。

「それが理不尽なことなのかどうかは自分の口からは言えません。まだまだやれる自信もあったし、すぐに3球団からお電話もいただいたので、現役を続けることにしました」

 熟慮の結果、林が選択したのが、親会社が変わり、新たな船出を切ることになった横浜DeNAベイスターズだ。決め手となったのは、幻となった「工藤公康監督」である。

(文中敬称略・後編【【元巨人投手・林昌範さん】「幻の工藤監督」でDeNAへ移籍、引退後、自動車教習所の取締役になってフロントから学んだことがどう役立ったか】に続く)

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)ほか多数。

デイリー新潮編集部

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