「頬に監督の手の跡が残った状態で試合に…」 体罰、挫折を乗り越えた女子バレー・益子直美が「怒ってはいけない大会」を主宰する理由(小林信也)
「体が大きいことがずっとコンプレックスでした。小学校3年の時、私にとっては衝撃的な出来事がありました」、益子直美が、静かに語り始めた。
「席替えの時です。クラス委員から順番に好きな友だちを指名するやり方で決めたのですが、『次かな』と思っているうち、私は最後のひとりに残ってしまいました。私には友だちがいないんだと落ち込んで、陰に陰にこもりました。
先生より背が高くて、男子から“恐竜”とか“ガリバー”とさんざん呼ばれていました。なるべく目立ちたくなくて、存在感がなかったのでしょう」
転機は中学生になる時に訪れた。
「暗い私を母が見かねて、『何か得意なものを見つけてごらん。勉強じゃなくてもいいんだよ』と言ってくれたのです。私は『アタックNo.1』が好きだったので、バレーボール部に入りました。バレーを始めて、『大きいことはいいことだ』となった。できなかったこと、例えばスパイクが打てるようになってうれしかった。やりがいを感じた。そこには自分の居場所がありました」
入学したのは近くの葛飾区立金町中。熱心な監督がいて、練習は私立並みに厳しかった。
「半年後、新チームでレギュラーになった途端に殴られるようになった。ミスをすれば怒られ、容赦なく殴られた」
理不尽な部活から逃れようと思わなかったのか?
「それが当たり前だと私も親も思っていた。自分で決めたことだし、自分の居場所が見つかった。小学校時代の自分に戻るのは嫌でした。誰かの役に立っている、特技としてバレーボールがある、それがうれしかったんです」
金町中は大会で上位に進めなかったが、益子は全日本ジュニアの合宿に呼ばれた。
「それで私、一度バレーボールをやめているんです」
またも成功者らしからぬ表情で益子が振り返る。
「自分より背の高い、180センチを超える選手がたくさんいた。みんながAクイックや時間差攻撃を普通にやっていた。こんなにすごい人たちが同い年でいるんだと驚いた。一生懸命やってきたけど私は無理だな、と完全に自信を失いました。帰ってすぐ監督に『もうバレーボールはやめます』と伝えた。高校からスカウトが来ていると聞かされたけど、『行きません』と」
「後ろから打ってみろ」
受験勉強を始め、夏期講習にも通ったが、勉強は向いていないと感じ始めたころ、友人にW杯バレーを見に行こうと誘われた。
「そこで憧れの汪嘉偉選手(中国)に会えて握手してもらって……」
バレーへの思いが再燃、共栄学園への進学を決めた。
高校では、女子バレーの全国大会で誰もやったことのない技で一世を風靡する。
「昼休みにひとりでスパイク練習していたらコーチが来て、『アタックラインの後ろから打ってみろ』と。私は言われるままに打った。要するにバックアタックです。セッターがいないから両手でトスを投げ上げて打った。次に『エンドラインの外から打ってみろ』と」
何とかネットを越えた。それを見てコーチが言った。
「明日からサーブはそれで行け」。日本女子では最先端のジャンピングサーブとバックアタックの誕生だった。
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