ブギウギで再注目「エノケン」の数奇な人生 57歳のとき右足を切断、5本以上の義足を使い分けた“日本の喜劇王”がいま蘇ったら
浅草はアナーキーな空間だった
努力の人でもあった。動物園に行ってサルの動きを一日中観察し、仕草を覚え込んだ。相手の動きをよく観察し、うまく引き立てたのも、動物園での観察が役に立ったのだろう。
「喜劇は間合いが大切だ!」
とエノケンの熱い声が聞こえてきそうだ。
エノケンが脚光を浴びた昭和初期は、世界恐慌による刹那的な享楽ムードが漂い、ナンセンスな文化に人々が酔いしれた時代である。その中心となった浅草は、浅草寺西側の「六区」と呼ばれる地域が興行街として整備され、モダニズムとエキゾチシズムが融合した浅草オペラが隆盛を誇る。
いわゆる山の手の富裕層やガチガチの教育論者は、浅草を「悪所(あくしょ)」と呼び、侮蔑的な目で見た。だが、そんなことにエノケンはこだわらず、浅草のアナーキーな活力を自らの笑いに取り入れたのである。「アハハ」というエノケンの笑い声が聞こえて来そうだ。
先見性も注目したい。
喜劇といえば「人情喜劇」が主流だった時代、西洋音楽を大胆にも替え歌にして、「アチャラカ(あちら化)」と呼ばれた破天荒なドタバタ喜劇を広めた。「ジャズのリズムに日本語の詞を初めて乗せた人」ともいわれる。忘れていけないのは、その歌唱力。
「バイブレーションやコブシを使わず、棒状に歌うので、『エノケンは歌が下手』と言う人もいたが、とんでもない。音程はしっかりしていて、決してずれていないのです」
と先述の吉村平吉は私に言っていた。
いずれにしても、「喜劇王」と呼ばれ、日本中を笑いの渦に巻き込む姿は実に痛快だ。
ここでエノケンの簡単な略歴を紹介したい。1904(明治37)年10月11日、鞄屋の長男として東京・青山に生まれる。
「満州(中国東北部)に行って、馬賊になりたい」「外国航路の客船のボーイになりたい」と言っていたという。「京都へ行って(活動写真の大スターの)尾上松之助(1875~1926)の弟子になりたい」という思いもあったようだ。いずれにしても、家から飛び出して生活したかったのだろう。
やがて浅草オペラのコーラスボーイなどを経て、1929(昭和4)年、劇団「カジノ・フォーリー」の旗揚げに参加するが、ほどなく解散。31年、劇団「ピエル・ブリヤント」結成。翌年にはエノケン劇団を浅草松竹座で旗揚げする。
小林信彦・著「日本の喜劇人」(新潮文庫)によると、座員150人、楽団員25人。当時としては日本一の規模だったそうである。しかも、大卒の初任給が50円のとき、エノケンの月給は税抜きで3500円だったというから驚いてしまう。34年には、映画「エノケンの青春酔虎伝」(監督・山本嘉次郎=1902~1974)に初出演した。
エノケンが全エネルギーを注いだ喜劇の笑いは、爽快感にあふれていた。弱者をコケ下ろしたり、バカにしたりして受けを狙った笑いではない。世のしがらみやガチガチの管理体制に窮屈な思いをしてきた人々には、カタルシスをもたらすほど魅力的だったのだろう。
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