ブギウギで再注目「エノケン」の数奇な人生 57歳のとき右足を切断、5本以上の義足を使い分けた“日本の喜劇王”がいま蘇ったら
朝日新聞編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今回はNHKの朝ドラ「ブギウギ」でもおなじみ、「日本の喜劇王」が登場します。多くの人を喜ばせ笑わせた稀代の喜劇人の人生はいかなるものだったのか? 知っているようで意外と知らない、喜劇王の数奇な人生です。
【写真】舞台やスクリーンでは見せない貴重なエノケンのオフショット
「日本の喜劇王」
年間約3000万人の観光客が訪れる東京・浅草。路地裏に一歩入ると、静かでひっそりとした空間が残っている。にぎにぎしくも寂しい雰囲気。愛嬌と哀しみが混じり合ったような街が浅草と言えるだろう。
その中心が寄席やストリップ劇場が立ち並ぶ浅草六区興業街だ。近くには人気の飲食店やライブハウスもある。通りを歩いていると、浅草ゆかりの芸人の顔写真を載せた看板があるのが分かる。渥美清(1928~1996)、関敬六(1928~2006)、森川信(1912~1972)、牧伸二(1934~2013)、内海桂子(1922~2020)・好江(1936~1997)……。
その中で燦然と輝いているのが「日本の喜劇王」と呼ばれたエノケンこと榎本健一(1904~1970)である。
短身ながらも、スピーディーでコミカルな動き。舞台やスクリーンにと駆け回り、独特のだみ声で観客を魅了した。ドタバタ喜劇だが、決してバタ臭くならず、都会的でオシャレで品があった。日本の喜劇を新しい時代へと導いた天才と言っていいだろう。
「王」の称号はあるが、偉そうに権力をふりかざすことはなかった。
《王様といういかめしい冠を、どのようにかぶせてみても榎本健一さんには、決して権力や威圧を象徴する王冠とはなりません。笑いの裏に涙を秘め。人生の哀歓をにじませた帽子のようなこの冠は、風雪に耐え、それを乗り越え、打ち克ってきた年輪が光輝いています》
40年にわたり親交のあった劇作家・菊田一夫(1908~1973)はエノケンの著書「喜劇こそわが命」(栄光出版社、1967年)の序文にそう書いている。大変な酒好きで、舞台で寝込むなんてのんきなこともあった。客ものんびりしていた。
「いいよ、ケンさん。楽屋で休んでおいで」
なんて声を掛けたという。エノケンが目を覚ますまで観客も待っていたという逸話もあるほどだ。
エノケンに憧れて浅草で暮らすようになった風俗ライターの吉村平吉(1920~2005)は、一時期、芸能プロデューサーでもあった。私は吉原界隈の居酒屋でよく飲んだが、気分が良くなると、エノケンの魅力を熱く語った。
「日本のコメディアンにはコンプレックスがある。でもエノケンさんは、『真面目な芝居』というか、伝統芸や新劇へのコンプレックスが見事になかったんです。偉そうな態度で人生訓をたれることもしなかった」
だが、その半生をたどると、栄光のスター街道との落差に驚く。エノケンの片腕だった座付き作家の菊谷栄(1902~1937)は戦死。本人も空襲に遭い、東京・大田区内の自宅を失った。45歳のとき脱疽(だっそ)という病気を発症し、57歳のとき右足を切断した。
跳んだり跳ねたりといった軽快な動きができなくなっても義足をつけてカムバック。義足は5本以上あり、役ごとに使い分けた。
激しい動きのため義足との間に痛みが走り、血がにじむ。我慢を重ねるうち目尻のしわが増え、しわ取りの手術までしたという。長男の病死や妻との離婚もあった。
「だからこそ、笑いが、笑うことが庶民の生きるエネルギーになると確信していたのではないか」
付き人だった元国立劇場理事の平島高文氏はかつて私の取材にこう語った。
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