いぶし銀のテクニック、関節技の鬼…木戸修さんが33年間胸にしまっていた“兄への思い”
伏せられていた兄の存在
その一切が明らかになったのは、2001年11月2日、木戸がその引退試合を終えた後の、セレモニーでのことだった。
会場となった横浜文化体育館に、カール・ゴッチの言葉が流れる。「オサム、私の息子よ。有終の美を迎えられたことを嬉しく思います」。猪木はこの日、入場券のもぎりをお手伝い。「木戸番をやった」とおどけ、リング上のマイクでも「木戸(気取)ってないで、バカになれ!」と得意のダジャレを披露も、いざ、木戸本人の話となると、「今日は寂しい気持ちです」としんみり。木戸、長州力VS藤波、木村健悟による引退試合が10分時間切れで終わり、いよいよ、木戸自身のマイクによる別れの挨拶の時が来た。しかし、触れたのは、本人のことでも、ゴッチのことでも、猪木のことでもなかった。
「兄が15歳でプロレスラーになり、練習中の事故により、16歳で怪我をし、闘病生活をし……」
木戸より3歳年長の兄、時夫は、1962年に力道山率いる日本プロレス入り。体も大きく、柔道とバスケットボールをたしなみ、何より明るい性格の時夫は、修にとって、「自慢の兄だった」という。周囲の期待も大きかった時夫は、同年7月にデビュー。ところが、その後、練習中に受け身を誤り、頚椎を損傷。下半身不随となり、プロレスラーとしての道を断たれていた。車椅子生活を余儀なくされた時夫を、家族総出で看病。無論、修も尽力したが、ある日、父と母に切り出した。
「俺、プロレスラーになるから」
驚き、慌てふためく両親。兄が大怪我をした以上、了承するわけもない。だが、続く修の言葉は、前言を上回るものだった。
「黙っていて本当にごめん。実はもう、入門したんだ」
兄の事故後、日本プロレスの道場を父と訪ねたことがあった。父にとっては、事故の補償 の確認のためだったが、修は既にこの時、プロレス入りを決めていた。当時は合宿所がなく、どんな選手も家から通う形だったため、家族も気付かなかったのだった。高校は中退していた。寡黙に過ぎる、修の行動。それは、家族に言えば、確実に反対されることを見越しての弟の固い決意の表れだった。この時の気持ちを、木戸修本人は、こう振り返っている。
〈(兄が)ケガして、父親、母親、兄弟みんなで看護してるのを見て、自分が頑張らないといけない〉(B・B MOOK『アントニオ猪木50Years(上巻)』より)。
またはっきりと、こうも語っている。
〈(兄の怪我がなければプロレス入りは)ない。それは全然考えてなかった。(中略)ケガしてからだろうね。親とか兄弟が力を合わせて看護してたから、それを見て、下の僕がやるしかないから〉(同上)
時夫は、1978年逝去。淡々と進んだ筆者の取材時、聞いてみた。
「木戸さんと言えばお兄さまもプロレスラーで……プロレスの話などは、やっぱりご兄弟でされたんですか?」
「若い時、よくしましたよ」
そしてこんな風に言い添えた。
「兄貴は、きっと良いレスラーになったんじゃないかな」
木戸は、自らの引退の挨拶をこう締めた。
「兄の意志を継いでプロレスラーになり、33年間、現役生活ができ、感無量です」
その後は新日本プロレスのコーチに就任。中邑真輔等を育てることになる。これについても、師匠のゴッチは引退当日、以下のように、エールを送っていた。
「厳しく、後進の指導にあたって下さい。オサムは、心の優しい人間だから……」
2008年、木戸修の長女が、ゴルフの世界でプロデビューしたというニュースが入った。今ではすっかりメジャーとなった木戸愛(めぐみ)である。その後は、娘の送り迎えはもちろん、そのキャディを務めるなど、ゴルフ場でよく見られるようになった。インタビューに対し、こんな風に語った。
「格闘技? 絶対にやらせたくなかったですね」
それは、愛する家族を守りたい、父親の目だった。
12月13日、父の訃報に関し、愛は以下のコメントを発表している。
「私にとっての木戸修は、優しい父親でもあり、偉大な先輩アスリートでもあり、尊敬し、父の娘であることを誇りに思っております。(中略)これからは父が天から見守り、一緒に戦ってくれると信じて、一層競技生活に精進して参りたいと思います」