いぶし銀のテクニック、関節技の鬼…木戸修さんが33年間胸にしまっていた“兄への思い”

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新日道場の練習器具は木戸家製

 2010年、前田日明を取材した時のことだ。発行されたばかりのプロレス専門誌をパラパラとめくりながら、彼はひとりごちた。

「まだ(現役を)やっとる方が多いなぁ~」

 そして、筆者にイタヅラっぽく言った。

「引退後の生活を、しっかり考えてたのは、木戸さんだけだね(笑)」

 それから数年後、木戸本人を、 自宅で取材する機会があり、驚いた。神奈川県横須賀市の南東にある、歴史ある一等地に、豪邸を建てていた。財産として、若い頃から不動産を所有していたとも聞いていた。往年のプロレス実況アナ、古舘伊知郎が付けた“寡黙なダンディズム”なる異名宜しく、インタビューは粛々と進んだが、木戸が笑顔を見せた瞬間があった。

「(カール・)ゴッチさんはね、来日すると、必ずウチに泊まってくれたんですよ」

 プロレス界の中でも、妥協なき強者として知られたカール・ゴッチ。その、関節技を始めとする峻烈なテクニックを受け継ぎ、前出のように“息子”と呼ばれた木戸も、スター選手たちをきりきり舞いさせた。

 WARから乗り込んで来た大将・天龍源一郎の左腕を、脇固めで破壊し(1993年2月16日)、全日本プロレスとの対抗戦では、ジャンボ鶴田を2度に渡り、これまた伝家の宝刀、脇固めで捕獲。「大金星か!?」と、6万3800人の観客を沸かせた(木戸、木村健悟VS鶴田、谷津嘉章。1990年2月10日・東京ドーム)。

 試合後、木戸にフォール勝ちした鶴田は、こう呟いた「派手に戦う選手じゃないけど、力、あるね」この後を引き取った谷津のコメントも印象深い。「ああいうタイプは、全日本プロレスにはいないですからね……」。まさにカール・ゴッチの教えを源流とし、サブミッションを基底としたレスリングスタイルは、新日本プロレス道場でのスパーリングの表象そのもの。

 実は、新日本の道場で使っていた、腕立て伏せ用の器具(プッシュアップバー)や、寸胴型の木製アレイを思わせる「コシティ」なるトレーニング用具は、実家が大工だった木戸家で作ったものだというから驚きだ。自らのフィニッシャーである固め技「キド・クラッチ」を思いついたきっかけについても、わかり易く説明してくれた。

「(腕の関節を逆に曲げる)脇固めに入ろうとすると、相手はそれを防ぐために、腕を反転させようと、自分が前転するでしょ? その動きを読んで丸め込めば良いんじゃないかと」

 地味な技ばかりではない。ドロップキックは誰もが認める名手だったし、バックドロップも手練れの域だった。橋本真也の延髄斬りで一瞬、失神させられた際は、後半、トップコーナーからダイビング・ニードロップを投下して大反撃(1993年10月10日)。かと思えば、49歳にして、場外へプランチャで飛んだこともある(木戸、獣神サンダー・ライガーVS越中詩郎、金本浩二。1999年11月1日)。

 いざやろうと思えば、硬軟自在。そして(繰り返しになるが)、実力者だった。にも拘わらず、木戸に多くのチャンスが与えられたとは言い難い。猪木が木戸に対して、特に若い時に説いていた、こんな言葉があるという。

「お前はもう少し、顔を勉強しろ」

 山本小鉄には過去の逸話を取材した時、こんな風に聞いた。

「道場破り? 昔はよく来ましたよ。腕自慢からその筋らしき奴までね。藤原(喜明)や木戸や僕が相手をするんだけど、木戸は一瞬のうちに相手を極めるけど、性格が優しくてね。だから、相手の腕を折れないんですよ。僕? 遠慮なく、折りましたよ。そういう奴らは無事に帰したら、何を吹聴するかわからないし。プロが舐められてちゃ、ダメなんだよ!」

 猪木は喜怒哀楽をもっと表に出せと言いたかったようだが、業界でも有名だったポーカーフェイスに、ことさら穏和な性格。「俺が」「俺が」と生き馬の目を抜くプロの世界に向いているとは、到底思えなかった。では、どんな理由で、何を目標に、頑張って来たのか。

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