「3億円事件」担当刑事が悔やむ「モンタージュ写真そっくりの少年」
名刑事「平塚八兵衛」は「シロだ」と言った
もっとも、決定的な決め手は見つけられないでいた。昭和44年、捜査一課長が浜崎仁から武藤三男に代わった。武藤は当時、あの「吉展ちゃん事件」の解決で名をあげた伝説の鬼刑事、平塚八兵衛を特捜本部に呼び寄せ、少年のシロクロの評価に決着をつける特命を与えた。結果、平塚が下した判断は“シロ”だった。
「まず八兵衛は、3億円事件は単独犯だと判断した。犯行の決行日に、実行犯はカローラ、白バイ、現金輸送車、カローラと、曲芸師のように次々と別の車両に飛び移っている。複数犯なら、こんな余裕のない危険な計画は立てない、というのが最大の根拠でした」
とは、当時の捜査幹部。
「そのうえで、少年はシロと判定された。3億円事件が起こる8カ月前から、多磨農協や多磨駐在所に次々と脅迫状が送りつけられる事件が発生していた。一連の脅迫状と後に送られた日本信託銀行への脅迫状の筆跡が一致。特捜本部では、3億円事件と同一犯と断定していた。この駐在所への脅迫状の切手についていた唾液の血液型がB型で、A型の少年とは合わなかったんです。また、その投函日に少年は練馬鑑別所に収容されていたことも分かった。八兵衛は“これ以上のアリバイはない”と得意げだった」
なるほど確かにその通りだ。しかし、それはあくまで単独犯という前提に立って、初めて成り立つ判断である。かりに複数犯であれば、この主張は崩れる。
「あの早い時点で、単独犯と断定してしまったのは失敗だったと思う。彼の判断が本部の公式見解となってしまい、佐伯少年の線はこの段階で消されてしまった」
と、別の幹部。昭和47年からは、平塚が捜査責任者として現場の指揮を執ることになった。過労で肝臓病を患い、2~3年で特捜本部から外れた鈴木元主任警部は慨嘆する。
「単数でも複数でも、実行犯は1人。そいつを捕まえれば、後は自然とついてくる。私は、窃盗の線で暴走族などを中心に捜査しなければダメだと言っていた。その意味でも、本来なら少年は消せなかったんです」
特捜本部では、少年の名前を出すことすらタブーになってしまったという。もっとも、そんな捜査も実は最終局面では、密かに軌道修正されていた。
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佐伯少年が事件直後に命を落としたのは前述の通り。しかし彼の周辺には事件後、急に金回りが良くなった人物がいたのだ。時効間近に捜査本部はどう動いたのか。いかに真相に迫り、そして挫折したのか。その緊迫のプロセスを後編ではお届けする。
後編【「3億円事件の後、急に金回りが良くなった男を取り調べると」 捜査員は「犯人の1人」と確信】へつづく
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