「3億円事件」担当刑事が悔やむ「モンタージュ写真そっくりの少年」
不思議と年末には大事件が起きることがある。その代表格が1968年(昭和43)年12月10日に発生した3億円事件だろう。
戦後最大の未解決事件の一つであるこの事件だが、捜査を主導した刑事をして「あれを犯人だと思わないやつは、刑事じゃない」と言わしめた“容疑者”がいた。
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事件発生から55年。迫真のドキュメントをご紹介しよう。
(前後編記事の前編・「週刊新潮 2015年8月25日号別冊『黄金の昭和』」探訪」掲載記事をもとに再構成しました)
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地元の不良を調べろ
愁いを帯びた切れ長の目。すっと通った鼻筋。面長で色白の顔……。かつてこれほど、数多の人間の好奇の目に晒された面相があっただろうか。昭和40年代、その人相は社会に最も強烈な印象を植え付けた。モンタージュ写真として公表された、3億円事件の実行犯の容貌である。
「犯人は盗んだ車やオートバイを操り、巧みな運転でまんまと3億円を強奪した。だから私は最初から、“自動車やバイクを乗り回せて、窃盗の犯罪歴のある奴を探せ。免許の有無なんて関係ない。多摩地区に土地鑑があり、これに該当する素行不良者を徹底的に調べれば、ホシは必ず挙がる”と言い続けたんです」
事件は昭和43年(1968)12月10日に発生した。当時、警視庁刑事部捜査一課で第七係長を務め、多くの殺人事件の捜査を手がけてきた鈴木公一・元主任警部。すでに多くの同僚が鬼籍に入っている。事件から50年近い歳月を経て、重い口を開いた彼の言葉には、今もなお無念の思いが滲んでいた。
発生直後から府中警察署の特捜本部に入った彼は、すぐにある少年に着目したという。事件2日後、少年の自宅のある国分寺市を管轄する小金井警察署から、
〈傷害等の検挙歴のある少年がおり、普通自動車と自動二輪(オートバイ)の免許を持っている。父親が交通機動隊員(白バイ隊員)で、白バイにも詳しい〉
という「注意報告」が特捜本部に寄せられたのだ。
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