“恋愛ドラマが苦手”な「亀山千広」BSフジ社長は、なぜ“月9”の立役者になれたのか? 「コンプレックスがないとドラマは面白くない」という哲学
広海と海都が「あんた」と呼び合う理由
民宿という舞台装置、祖父と孫、転がり込んできた男二人組――。たしかに『ビーチボーイズ』を因数分解すると、ホームドラマを彷彿とさせる要素が散らばっている。
一方で、ホームドラマとは違い、『ビーチボーイズ』には、“ひと夏”という区切りがあった。広海(反町隆史)と海都(竹野内豊)は、最後までお互いを「あんた」と呼び続ける。ホームドラマのようでいて、ロードムービー。この質感が、『ビーチボーイズ』をいま見かえしても、古臭く感じない要因だろう。
「岡田さんのこだわりだと思うんです。3ヵ月しかいないわけですから、お互いを“お前”と呼ぶほど仲が良いわけではない。そこまでのコンビじゃないわけです。他人行儀なんだけど、お互いに意識はしている。その期間限定の距離感が、“あんた”なんですよね」
終わりがあると分かっているからこそ、後ろ髪を引かれる。
「『ビーチボーイズ』は、広末さん演じる和泉真琴が書いた、ひと夏の絵日記をドラマにする――というコンセプトがありました。主人公は、反町君と竹野内君なんだけど、一番ドラマがあるのは真琴です。彼女の目線やあこがれをどう描けるか。その点も注視した」
思春期の10代は真琴に、社会人は広海と海都に、シニア世代は真琴の祖父・勝に。民宿を舞台に、感情移入できるレイヤーが異なる。『ビーチボーイズ』は、恋愛主義全盛の月9にあって、平均視聴率23%、最高視聴率26.5%を記録した。今なお、名作と語り継ぐファンは多い。
「物事ってそんなに簡単に決まりませんよね。だけど、影響を与える特別な時期があると思います。一生忘れられない3ヵ月、そういうドラマを作りたいと思って、『ビーチボーイズ』はできあがった。冗談抜きで、プロモーションビデオを作るような感覚に近かった」
半面、「撮影はハードだった」と笑って回想する。
「ロケは館山で行われていたのですが、当時はアクアラインがない。渋滞すると、東京まで戻るのに8時間かかることもありました。当初は、東京のシーンはもっと多い予定でした。しかし、実際に撮影を始めると物理的に厳しいことが分かり、館山中心になったところがある。やっている最中は必死ですよ。でも、そのせいか演者にもスタッフにも、不思議な連帯感が生まれて。僕らにとっても思い出深いドラマです」
「悩んでいる人って、人に優しくなれるんですよね」
『ビーチボーイズ』には、人生には特別な瞬間があることを暗喩する名言が少なくない。
「自分で夏は終わりだと思ったら、その時が終わりなんじゃないかな」
「夏には夏だけの時間の進み方があるような気がするから」
「ここは俺の海だ。お前たちの海は別にあるはずだ」
「あの時代って、今ほど働き方が多様ではなかった。ちょうど起業する若い世代が増え始めるタイミングです。もしもドラマに続きがあったなら、海都も起業していたんじゃないかな(笑)」
働き方が固定されていた。固定されているのに、バブルは弾けた。違和感を覚えていたと亀山氏は話す。
「90年代後半から00年代の初頭までって、僕は嫌いな言葉だけど、“自分探し”的なムードが漂っていた時代ですよね。僕は、96年に『ロングバケーション』、97年に『踊る大捜査線』『ビーチボーイズ』を手掛けますが、そこに登場する人物たちの多くが、王道からちょっと外れた人たちです。『踊る大捜査線』の青島くんも転職して刑事になった人物ですから」
既存のレールから、ちょっと外れた人たち。時代が求めていたのは、そうした人間の息遣いや悩みだった。「コンプレックスがないとドラマは面白くない」。そう亀山氏は断言する。
「悩んでいる人って、人に優しくなれるんですよね。僕がかかわったドラマの主人公たちは、コンプレックを抱えている。いま思えば、優しくさせるためだったのかもしれません。ところが、ドラマってずるくて、誰も見ていない一人で悩んでいるシーンを作れるんです。悩んでいるところなんて見せたくないし、見られたくない。でも、ドラマだとそれができる。そういうものを描けるのがドラマです」
虚構なはずなのに、共感させたり、あこがれさせたり、誰かの悩みを解消させるヒントになったりする。時代を超えて愛されるドラマは、いつだって優しいのだ。
前編【「いまアラフィフの役者には“当たり役”があった」 「亀山千広」BSフジ社長が明かす『ビーチボーイズ』復活の理由】からのつづき