お兄ちゃん・若乃花の土俵人生 新入幕時111キロの小兵力士は「横綱」の地位にもがき苦しんだ
伯父と父の相撲をミックスしたような粘り腰
朝4時過ぎから始まる部屋での稽古から、消灯の時間まで、若貴兄弟は注目の的だった。つねに回り続けるテレビカメラ 、新聞記者の目、そしてファンの期待と興味の視線……。だからこそ、土俵だけに集中できるという環境はあった。
翌夏場所、序ノ口優勝、九州場所では三段目優勝を果たし、平成元年初場所、勝は幕下に昇進した。思えば昭和63年春場所は、実力派力士が揃っていた。まずは弟の光司、その若貴兄弟をライバル視しているハワイ出身の曙(のち横綱)、怪力の古賀(のち大関魁皇)、中学横綱の西崎(のち幕内・和歌乃山)……。上を目指そうと思えば、まずは同期生を制していくことが必要だった。
幕下で7場所を要しているうちに、一足早く貴花田が新十両に昇進。2場所後の平成2年春場所、若花田は曙と共に十両に昇進。若貴兄弟と曙の戦いは、この後も続いていく。
さて、新入幕を果たした若花田は111キロの小兵。平均体重が140キロ超の幕内力士の中では、最軽量の部類だ、若花田の武器は、天性の相撲勘と足腰の強さだった。伯父と父の相撲をミックスしたような粘り腰、相手の力を利用する巧みさ、そしておっつけのうまさ……。まるで土俵に足が生えているかのような、いやらしさがあった。
史上初、兄弟横綱の誕生
平成3年からは三賞の常連となる一方、貴花田は春場所、優勝に迫る活躍を見せ、翌夏場所は横綱・千代の富士を引退に追い込む白星を挙げる。
両国国技館は、連日、満員御礼が続いた。いや、両国国技館だけではない。大阪、名古屋、九州場所、そして地方巡業でも、会場は超満員。
若貴兄弟をひと目見たい。見なければ!
そうしたファンの熱い思いは、マス席の高騰にもつながった。一マス4名で20万円以上出しても惜しくないという観客が続出し、まさに、世は「相撲バブル」となった。
平成4年初場所の貴花田の初優勝に続き、若花田も平成5年春場所で初優勝し、四股名を若ノ花に改める。そして秋場所、大関に昇進。若貴兄弟が揃って大関に名を連ねる豪華な番付となった。
平成5年名古屋場所では、若貴曙という同期生の3人で優勝決定戦が行われた。思い返せば、この頃が若貴ブームの絶頂期だったのかもしれない。
若ノ花の結婚(平成6年)という明るい話題はあったものの、貴花田の婚約破棄騒動(平成5年)と横綱昇進見送り、若ノ花の故障続きなど、停滞ムードが続くようになっていた。
しかし、平成7年初場所、貴乃花(大関時代の貴ノ花から改名)が満を持して横綱に昇進。曙貴時代を経て、貴乃花の独走時代へ突入する。だが、平成7年九州場所、兄弟での優勝決定戦を若乃花(若ノ花から改名)が制した頃から、横綱昇進待望論が湧き上がってきたのである。
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