【どうする家康】半世紀にわたり子づくりした家康、男女ともに愛した二代秀忠、三代家光の“徳川家維持力”の差

国内 社会

  • ブックマーク

二代、三代将軍が好んだ「衆道」

 竹千代あらため三代将軍家光も、子に恵まれたほうではない。(事実上の)母の江が嫁探しをし、公家の鷹司信房の娘の孝子をいったん猶子として迎え、気に入ったので、家光が20歳で将軍職を継いだ翌元和9年(1623)8月、江戸城本丸に御前様として入った。しかし二人は不仲で、まもなく別居している。したがって、正妻の孝子とのあいだに世嗣が生まれる可能性はゼロだった。

 寛永9年(1632)1月に秀忠が死去した際には、家光にはまだ世嗣がおらず、秀忠は気が気ではなかったと思われる。一方、家光自身は父の秀忠とは心が疎遠で、祖父の家康への思慕の情がきわめて厚かったとされる。これは正妻の江の実子ではないため、両親が弟ばかりをかわいがり、自分を遠ざけていると感じたことが原因かもしれない。

 家光にようやく嫡男の竹千代(のちの四代将軍家綱)が生まれたのは、秀忠の死から9年が経過した寛永18年(1641)のことだった。

 家光に関しては、父の秀忠以上に衆道の志向が強く、周囲は女性をあてがうのに苦労したと伝わる。性的関係をもったと伝わる男性の数は多いが、なかでも有名なのが、慶安3年(1650)に家光が急死した際、後を追って殉死した堀田正盛の例である。『葉隠』には「堀田加賀守御追腹のとき、御座をも直したる者にて候間、肌を見せ申間敷由にて、肌ぬぎ不申候よし」とある。前出の氏家氏はこう記す。「自分は亡き君と性的交わりがあった身であるからと、肌ぬぎせず腹を切ったというのだ。家光に許した肌を他の人々の目に触れさせるのを固く拒んだのである」(前掲書)。

 御家の安泰のためには、家康のように生涯をとおして女性と関係をもつほうが、有効であるのはまちがいあるまい。

香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 3 4 次へ

[4/4ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。