【どうする家康】半世紀にわたり子づくりした家康、男女ともに愛した二代秀忠、三代家光の“徳川家維持力”の差
側室よりも男色か?
ちなみに、秀忠の五女で慶長12年(1607)10月に生まれ、のちに後水尾天皇の女御として入内した和も、江が死去した際に朝廷で服喪が考慮された形跡がないことから、福田氏は秀忠の庶出子だと主張。慶長6年(1601)5月に生まれた三女の勝も、秀忠が死去した際の遺産額が少ないことから、庶出子だと考えられるという。
すると、江が生んだのは一男二女ということになる。また秀忠には、慶長6年(1601)2月に奥女中に生ませたと思われる長男の長丸がおり(生後1年余りで死去)、慶長16年5月に女中の静が江戸城外で出産し、保科家に養子に出された四男の正之もいた。
したがって秀忠が側室をもうけなかったのは事実だが、嫉妬深い江に遠慮していたという話は、にわかには信じられなくなる。それに、側室を置かなかった理由はほかにあるのではないだろうか。父の家康は66歳まで子をつくり続けたのに対し、秀忠は最後の子の保科正之が生まれたとき33歳で、ずいぶんと開きがある。指摘されるのは秀忠の衆道、すなわち男色である。
山本博文氏は『殉死の構造』(角川新書)で、秀忠の死の翌朝である寛永9年(1632)正月25日、秀忠付年寄の森川重俊が殉死した事例を取り上げる。年寄のような重臣の殉死は珍しく、森川は知人に、勘気を許されたうえに年寄にまで抜擢してもらって、その恩に報いるのは難しいから、遅れないように御供をして殉死する、という旨を書き遺したという。山本氏は「この文面はそれだけのこととは思いがたく、かれの御側の経歴や、年寄になったときの大名たちの驚きから考えて、衆道の関係にあったと思われる」と記す。
また、氏家幹人氏も『江戸の性談』(講談社文庫)にこう記す。「慶長二十(一六一五)年、秀忠は成瀬豊後守と小山長門守のふたりに切腹を命じた。理由は、寵愛する長門守が豊後守と衆道の契りを結び、再三の警告にもかかわらず密会を続けたからだという。(中略)慶長六(一六〇一)年、鍋島直茂から証人(人質)として差し出された次男の直房十八歳を、二十三歳の秀忠は『殊ニ御寵愛』して、五千石の知行を与えたのみならず、わが名の一字を授けて忠茂と名乗らせている(『勝茂公譜考補』)」。
子づくりに熱心でなかった理由は、これだった可能性がある。
[3/4ページ]