【どうする家康】半世紀にわたり子づくりした家康、男女ともに愛した二代秀忠、三代家光の“徳川家維持力”の差

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秀忠の子はみな江が生んだ、のウソ

 慶長2年(1597)5月、江は伏見で秀忠の長女の千を生んだ。秀吉の遺言に従って慶長8年(1603)7月、数え7歳で同11歳の秀吉の遺児、秀頼に嫁いだ千である。続いて慶長4年(1599)12月には次女の子々が江戸で生まれ、家康が加賀の前田利長の世嗣との政略結婚を進めた。だが、子々について福田千鶴氏 は、「母は浅井江とされるが、生誕地を考えれば生母は江以外の女性であり、江は表向きの母として位置づけられたものと推測する」と書く(『徳川秀忠 江が支えた二代目将軍』新人物往来社)。

 どういうことか。「江は慶長四年十二月に京都から江戸に下ってくるが(『太田家文書』)、慶長四年は秀忠がずっと在江戸であったので、十二月に江戸に下った江が同月に江戸で出産するのは不可能だし、江戸に下る以前に伏見で江が子々を生んだとすれば、子の無事を考えて誕生間もない子々を無理に動かすことはせず、伏見に残したのではないか、と考えるからである」と福田氏は記す(前掲書)。

 江が嫉妬深いから秀忠は側室をもうけず、子女は基本的に江が生んだ、という通説が崩れる。子々はわずか3歳で前田家に嫁いだが、江にとって情が薄かったからだろうか。

 慶長8年(1603)7月には四女の初が生まれた。千が秀頼に嫁ぐ際、身重で伏見まで同行した江が、そのまま伏見で出産したのだ。初は江の実娘であるのはまちがいないが、そのちょうど1年後、慶長9年(1604)7月に生まれた竹千代、のちの三代将軍家光は怪しい。どの史料も母は江と記すが、福田氏は「竹千代の生母も江以外の女性であったと推考する」と述べる(前掲書)。端的にいえば、「出産の一年後の同じ月に次の子を無事に出産することが難しいことは、常識的に考えれば簡単にわかるだろう」というのが理由である。では、だれが母親なのか。おそらくは名も知れぬ奥女中だろう。

 だが、慶長11年(1606)年6月に生まれた国松(のちの忠長)は、江が生んでいる。竹千代と国松。秀忠と江が聡明な国松のほうをかわいがったことはよく知られるが、国松こそ江の実子であったなら、話はわかりやすい。世継ぎを竹千代と決めたのは、死を何カ月か前にした家康だった。

 家康は秀忠に世嗣が生まれない可能性も考えたのだろうか。慶長5年(1600)に九男の義直、同7年(1602)3月に十男頼宣、同8年(1603)8月に十一男の頼房と、秀忠に竹千代が生まれる前年まで精力的に子孫をつくった。実際、この3人が徳川御三家を創出し、徳川家の永続を支えたのだから、恐れ入るしかない。

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