運をつかんでV9巨人に貢献した高田繁 プロ入り6年目で苦悩した理由とは?(小林信也)
三塁コンバート
高田にも苦境はあった。
「苦労したのはプロ入り6年目からの3年間。打撃コーチの山内一弘さんから、『あれ、もったいないなあ。あと1メートル中に入ったら毎年3割打てるぞ』と言われた。僕も同意して山内さんとフォーム改造に取り組んだ」
あれとは〈高田ファウル〉と呼ばれたレフト線に切れるファウルだ。
「僕はバットのヘッドがかぶるんです。力がないからヘッドを早く返す。そうすると球に負けない。しかし左に切れる。改造に取り組んで打球が切れずにフェアになったけど、それが凡打になる。捕られてアウト。簡単じゃなかった。元に戻してもダメだった。3年間、本当に苦労した」
72年には.281あった打率が2割5分台に落ち、75年には.235にまで下降、ベンチを温める機会も増えた。それは長嶋茂雄監督1年目、最下位に沈んだ年だった。日本ハムから張本勲の移籍が決まり、高田は定位置を奪われた。だが、ここでも運があった。一縷の望みを与えられたのだ。
「トレードを志願しようと長嶋監督の家に行ったら、『来年はサードをやってくれ』と言われた。投手と外野しかやった経験のない人間をいきなりサードにするなんて長嶋さんでなければ考えつかない」
オフは多摩川グラウンドに通い、1日千球打ち込んだ。翌年から後楽園が人工芝に替わる。同じ人工芝を敷設したライトの一角でノックを受け続けた。
「それで3割5厘打った。死に物狂いでやったんだね。打球が速いから投手の足元を抜けばヒットになる、それに気付くのも早かった。三塁守備も、人工芝の打球にいちばん慣れているのは僕だという自信があった」
転向1年目でダイヤモンドグラブ賞も獲得した。高田はいま、爽やかに笑う。
「サードになって5年間、完全燃焼して引退できました」
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