運をつかんでV9巨人に貢献した高田繁 プロ入り6年目で苦悩した理由とは?(小林信也)

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 高田繁が巨人に入ったのは〈V9〉4年目の1968年。1年目の6月末からレギュラーに定着し新人王。阪急との日本シリーズでは全6試合に「1番レフト」で出場。26打数10安打の活躍でMVPを獲得した。高田の登場で5番に座った柴田勲が王貞治と並ぶシリーズ3本塁打を打つなど、高田は巨人の骨格をも変えた。V9末期には「1番柴田、2番高田」が多かった。

「僕は2番が好きだった。制約がある中でいろいろ対応するのが面白かった」と高田自身が振り返る。

 V9巨人の一翼を担った高田だが、巨人入りは予想外の出来事だった。

「高校を卒業する時、南海の鶴岡一人監督から熱心に誘ってもらいました」

 浪商3年時は投手だったが、鶴岡は高田を遊撃手にしたいと考えていた。

「僕は南海に入りたかった。6人兄弟の下から2番目。親父は普通のサラリーマンだから、契約金で家計を助けたかった。でも、高校の監督たちに反対されて」

 明治大に進学。外野手として六大学最多となる通算127安打を記録した。

「明治を出る時にはドラフト制度ができていた。巨人に指名されて正直、えらい球団に当たったと思いました。レギュラーになれない、代走か守備要員で出られたらいい、そう考えました」

 レフトには前年西鉄から移籍した高倉照幸がいた。移籍早々4割近く打ち、開幕ダッシュに貢献した高倉の活躍は鮮烈だった。だが、

「高倉さんが足をけがした。代わりに僕が出た。使ってもらった時、生かせるかどうかが運命の分かれ目です」

 淡々と高田は語った。生かせるかどうか、実際、そのチャンスを生かして生き抜いた自負がそこに見えた。

浪商の猛特訓

 甘いマスク、涼しい表情で活躍した高田だが、プロ入り前にすさまじい競争を勝ち抜いた筋金入りの実績があった。高田は45年7月、大阪市で生まれた。

「どうしても甲子園に出たかったから、当時、大阪でいちばん甲子園に出ていた浪商を選びました。笑い話みたいだけど、入学式に行ったら新入生が380人くらい。式が終わった時、『野球部に入る生徒はその場に残れ』と言われた。そしたら大半が残った。約300人が野球部希望でした。最初はまるで早くやめさせるような練習が続いた(苦笑)」

 ずっと走らされ、厳しいトレーニングを課せられた。

「1週間でだいぶ減って、夏には80人になりました。1カ月くらいして野球の実技テストがあった。10人くらい選ばれた中に僕も運よく残ったんです」

 強肩と俊足を買われた。中学では投手だったが、身長170センチ程度、球速もまあまあ。何しろ1年上に尾崎行雄がいた。2年で中退し東映入り、1年目に20勝を挙げた伝説の怪童だ。

「尾崎さんの何十センチもホップする速球を見たら通用しないとすぐわかりました」

 外野手としてまずまず活躍した高田は1年生で唯一夏のベンチ入りメンバーに選ばれた。浪商は当然のように甲子園に出場した。

「レフトの先輩が甲子園で熱を出して、僕にチャンスが回って来ました」

 このチャンスも逃さなかった。ほぼ毎試合ヒットを打ち、堅実な守備で浪商の全国優勝に貢献した。

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