没後60年「力道山」が夢見た東京五輪「南北統一チーム」 資金財団に莫大な寄付 会いたかった人は
力道山が極秘訪韓した理由
実は、20世紀も終わろうとする2000年、これについて意外な事実を聞いた。それは、力道山の秘書かつ、不動産資産会社「リキ・エンタープライズ」の副社長だった、吉村義雄の発言だった。20世紀を代表する偉人として、力道山についての話を聞いた時だった。
「その寄付はね、本当は1000万円 も集まっていなかったのです」
「えっ!?」
「肝心の興行に不入りが続いて……。数百万円、足りなかったんじゃないかな? ですから、新聞社や有力者の方に、お金を借りたんですね。力道山ともあろう者が、中途半端な額を出せるかという感じだったんじゃないかな」。
力道山の胸中には「南北統一チーム」による東京五輪参加という夢を、何としても実現したいという思いが強くなっていたと思われる、出来事があったのである。
1963年1月8日未明、力道山は自らも住む「リキ・アパート」を極秘に出た。自室のある最上階の8階から、直通のエレベーターで、自分だけが使う4階の駐車場に向かい、そこから、自身と関係者しか知らない、秘密の裏口を使う用意周到ぶりだった。だが、力道山に“北”に肩入れされると困る人物たちが前を塞ごうとし、更には車で追って来た。それを上手くまき、力道山は、空港へと到着。機上の人となった。
この時、吉村も一緒だった。力道山はこの日から5日間、極秘に訪韓したのである。実は前年12月に、自民党副総裁である大野伴睦が渡韓していた。オールドファンならご存じだろうが、大野は力道山率いる日本プロレスのコミッショナーを務めていた。力道山の韓国行きは、この大野の要請もあってのもの。61年の軍事クーデターで国家再建最高会議議長に就任し、63年12月には大統領となる朴正煕が、力道山とプロレスに興味を抱いていたことが理由の1つだった。
戦後の日本を空手チョップで勇気付け、その躍進に大いに寄与したプロレスを韓国にも改めて導入し、国威発揚に役立てようという算段が朴正煕にはあった。
韓国での力道山を観た吉村は驚いた。ハングルで朝鮮民謡を歌い上げ、会う人には、「長い間、こちらには来てないものですから」と、日本語が中心になる挨拶を詫びた。
滞在最終日の行動は伝説化している。力道山は、母国、北朝鮮との国境にある板門店への訪問を懇願。いざ同地に着くと上半身裸になり、北朝鮮の方へ向かい、咆哮をあげた。諸説あるが、「『オッパ!』(ハングルで兄さんのこと) と叫んだように聞こえた」と吉村は語る。
「幼い頃、朝鮮相撲でよく遊んだ長兄に会いたいと、日本でも頻繁に言ってましたから」
1984年3月、北朝鮮の週刊誌「統一新報」に、力道山が母国に残して来た長女の手記が載った。翌年3月、日本でも雑誌「統一評論」に抄訳の形で掲載されているが、長女は、父・力道山から、1960年代前半、以下の内容の手紙が極秘裏に届けられたことを明かしている。
〈東京オリンピックのとき、必ずおまえと会おう〉
〈大会に参加するわが共和国選手団の費用はすべて自分が負担する〉。
力道山が訪韓した1963年、韓国側は北朝鮮と数度に亘り、翌年に迫った東京五輪参加へ向けた統一チーム結成について、何度か話し合っていた。だが、最終的には決裂。加えて、北朝鮮はインドネシアが主催した国際スポーツ大会「GANEFO(新興国スポーツ大会)」へ参加を表明する。インドネシアは既にIOCを脱退しており、GANEFO参加は、“反・五輪”の旗幟を明確に示すものだった。結果的に、翌年の東京五輪に北朝鮮選手団の姿はなかった。北朝鮮の東京五輪への参加は、幻に終わったのだ。
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