「父は延命治療を望まなかったので…」 脚本家・山田太一さんの長男が明かす晩年
せりふを少しでも間違えるとシーンが台無しになる繊細さ
「山田さんには感謝の気持ちしかありません」
と語るのは、両作に出演した、俳優の国広富之氏。
「『岸辺』は私のデビュー作でしたが、主役級の大役をいただいた。時に3分の1が私の演じる『繁』役のせりふだった回もあり、緊張の連続でした。山田さんの台本には人間心理の細やかな動きがリアルな会話で描かれ、演出家やディレクターからは“(山田さんは)語尾のひとつひとつまで考え抜いて書いているから、せりふを一字一句変えないように”と言われたものです。実際、せりふを少しでも言い間違えるとシーン全体が壊れてしまうほどの繊細さでした」
山田さんは現場を訪れることはほとんどなかった。
「打ち上げの席には来られましたが、演技論などはされない。はにかみながら前髪をかきあげ、若造の話を“うん、うん”とうなずいてくださる。そんなところから次の作品の構想を得ていたのかもしれません」(同)
のちに国広氏は、プロデューサーになぜ無名の自分が抜てきされたのか尋ねたという。すると、
「山田さんが“若い時の自分に(国広氏が)似ているからだよ”と言っていたと伝えられました。山田さんは『繁』にご自身を投影していたのかもしれません」
今までにない小説を
70年代に入ると山田さんは文筆の世界にも活躍の場を広げる。小説『異人たちとの夏』(新潮社刊)で山本周五郎賞、随筆『月日の残像』(同)で小林秀雄賞を受賞するなど健筆を振るった。
しかし、
「7年前に自宅の玄関で倒れてしまったんです」
と長谷川さんが言う。
「脳出血でした。重症で、当初は右半身が完全に動かなくなりましたが、辛いリハビリを耐え、歩けるまでに回復し、言葉もかなり戻るようになりました」
執筆の意欲もよみがえった。
「今までにない小説を書いてみたいという思いがあったようです。あるイギリス人作家の小説を愛読し、このような作品を書きたいと。売れない作家が晩年、片田舎に隠居し、穏やかに、丁寧に暮らしていくというストーリーで、とても琴線に触れたようで、本は付箋だらけになっていました」(同)
その作品とはギッシング作『ヘンリ・ライクロフトの私記』。これもまた、作品に晩年の自身が目指す姿を投影していたのだろうか。
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