「父は延命治療を望まなかったので…」 脚本家・山田太一さんの長男が明かす晩年

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 ホームドラマの全盛時代、その先頭を駆け抜けた脚本家・山田太一さんが老衰で世を去った。享年89。遺族がその晩年の姿を明かす。

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 山田さんが川崎市内の施設で息を引き取ったのは11月29日のこと。

「亡くなるきっかけは、その2週間ほど前から食事が困難になったことです」

 と語るのは、山田さんの長男で撮影監督の石坂拓郎氏である。

「施設から“食べ物を飲み込まなくなった”と連絡を受け、駆け付けました。病床の父を見た瞬間、戦い疲れたような、今までとは明らかに違う様子でしたので、お医者さんに診てもらったところ、このまま何もしないと難しいでしょうと告げられました」

 生前の山田さんは尊厳死に同意していたという。

「延命治療を施さないでほしいと明確に述べていました。ですからその意思を尊重し、なるべく体に負担のかからない治療をお願いしました。胃ろうや栄養点滴をする選択肢もあるのですが、さらに苦しむ可能性がある。それがぎりぎり出ない療法を考えていただいた。最期をみとったのは一番上の姉でしたが、脈拍が徐々に落ち、やがて呼吸もゆっくりに……と、自然のままに、安らかに逝ったそうです。とても穏やかな表情を浮かべて。親しい方々と別れを告げる時間もあり、家族にとっては悲しみに暮れながらも救われる、見事な臨終でした」(同)

「父は仕事を愛していたんだな、と」

 次女の長谷川佐江子さんも言う。

「病床でも、作品や仕事の話をする度、目がパッと反応するんです。“あの作品面白かったよね”と話しかけるとうれしそうな目になる。父は仕事を愛していたんだな、とその都度実感させられました」

 山田さんは東京・浅草生まれ。早大卒業後、松竹の助監督となり、木下惠介監督に師事した。1965年に独立し、テレビドラマの世界に進出。以来、「男たちの旅路」(NHK)、「早春スケッチブック」(フジテレビ系)など数々の作品を生み出したが、代表作の双璧といわれるのが、「岸辺のアルバム」(TBS系/77年)と「ふぞろいの林檎たち」(同/83年)だ。

 前者は多摩川の水害でマイホームを失う中流家庭の崩壊と再生、後者は四流大学に通う若者たちの青春群像を描き、多くの支持を得たのである。

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