病んだ妻を尻目に 我が家の食卓にやって来る不倫相手…62歳夫が彼女を止められない特殊事情とは
前編【僕の貯金に手をつけた母、その虚し過ぎる使い道… アラ還社長が会社の年下女性に「人並の幸せ」を脅かされるまで】からのつづき
堀田友一朗さん(62歳・仮名=以下同)は、高校を卒業後、すぐに働き始めた。“飲む打つ買う”で家族を苦しめた父親に代わり、母ときょうだいを養うためである。家族のために尽くす日々を送って来た彼は、26歳の時に同業他社の社長の娘だった貴子さんとお見合い結婚。一男一女にも恵まれ、ようやく「人並みの幸せ」を実感したという。
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50歳になったころ、彼は義父から会社経営を任された。義父は義理人情に厚い、立派な人だったから彼は「自分にはとても務まらない」といったんは辞退した。すると義父は社内の全員に、友一朗さんが社長になることをどう思うかと聞いて回ってくれた。温和で実直な彼が嫌われているわけはなかった。
「ただ、妻だけが『あなたは経営者には向いてないと思う』と言ったんですよ。僕もそう思った。そこでそれまでも手伝っていた妻を専務にしました。会社は少し大きくなって、社員が10人ほどいたけど、妻はひとりひとりにこまやかに対処していましたね。僕は悩んでばかり。あちらを立てればこちらが立たずで……。きみがやりたいようにやればいいと義父は言ってくれましたが、苦労して一代で作った会社を僕がつぶすわけにはいかない。むしろもっと大きくしていかなければならないはずと、勝手にプレッシャーを感じていました」
それでも古参の社員や妻の協力もあって、なんとか業績は維持できていた。もともと石橋を叩いて渡るタイプだから、無茶はしない。そのかわり目の前のチャンスを逃すこともあった。そこは妻のほうがずっと大胆だった。
「いつの間にか妻も経営がおもしろくなっていったんでしょうね。娘は大学進学で自宅を離れていたし、長男も遠方の大学へ入学しました。子ども中心で生きてきた貴子ですが、いろいろ勉強はしていたようで、今度は仕事に没頭するようになったんです。僕は現場で働くほうが好きだったので、妻が経営に乗り出してくれて助かりました」
常に話し合いながら家庭を築き上げてきた妻と、今度は事業で一緒に力を合わせてやっていくことになった。彼はそれをごく自然なことと受け止めていた。
「本当に妻にはお世話になったし、いつも感謝していました。たぶん、会社でも近所でも仲のいい夫婦だと思われていたでしょうね。僕自身、妻といるときがいちばんリラックスできたんです。どんな自分を見せても彼女には嫌われないと思っていた。妻もきっとそう思ってくれていたはず」
義両親の死をきっかけに…妻に異変
5年前、義両親が短期間に相次いで亡くなった。妻の嘆き方はすさまじかった。もちろん両親が亡くなったのは悲しいだろうが、ふたりとも90代に入っていたから、妻もある程度の覚悟はできているはずだと友一朗さんは考えていた。
「親より先に逝かないでよかったと思うような年齢ですよ、こっちだって。長生きしてくれたんだからと妻に言ったんですが、それが思いやりがないと怒られました。妻が意味もなく不機嫌になるようなことはなかったし、何かあっても気持ちを切り替えるのがうまいタイプなんですが、両親の死からはなかなか立ち直れませんでしたね」
ちょうどそのころ、彼らの会社は大事な仕事を抱えていた。それがうまくいくかどうかで今後の会社の命運も決まるような大仕事だった。だが妻は仕事に身が入らなくなった。
「『お義父さんも応援してくれていた仕事だよ、がんばろうよ』と言っても、何のために仕事をするのかわからなくなったと彼女は涙する。いつまでも悲しんでいることを両親が望んでいるかなと慰めると、『私たち親子のことはあなたにはわからない』と。その言葉が非常に引っかかりましたね。結局、オレは他人なのか、と。この30年は何だったんだ、オレはきみと義両親に心から尽くしたつもりだったけどとつい言ってしまった。『あなただっていい思いをしたでしょう。あのままあの会社にいるより、今の立場のほうがずっといい。私と結婚したから』と。妻が通常の精神状態でなかったのはわかっています。身も世もないほど嘆き悲しんでいたから。それでも、そんなふうに思っていたのかと愕然としました」
のちに妻は、そんなひどいことを言った記憶はないと言い張ったが、言われたほうは忘れるはずもない。
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