がぶり寄りの人気力士・荒勢は亡くなって15年、ウイスキーCMで人気も実は…魅力は見た目と素顔のギャップだった

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地味なデビューながら独特のがぶり寄りで台頭

 日大・荒瀬が花籠部屋入り――。

 先輩の輪島が華々しくプロデビューし、出世街道を走っている陰で、荒瀬のプロ入りはほとんど話題にならなかった。

 昭和47年初場所、幕下付け出しでの初戦は、まさかの黒星。この場所は5勝2敗という屈辱的な結果に終わった。学生相撲出身の時津風親方(当時の元豊山)が、当時を振り返って、

「将来性という意味では、あまり光るものが感じられなかった。それほど期待されて入ったわけでもなかったですし……」

 と語っていたように、地味なデビューとなった。

 その後、徐々にプロの水に慣れてきた荒瀬は、5場所後に新十両に昇進。昭和48年名古屋場所では新入幕を果たし、翌49年夏場所では大関で優勝した北の湖を破って殊勲賞を受賞する。独特のがぶり寄りが冴えてきたのは、この頃からだ。

「自分は器用なほうじゃないから、短時間に早くウワっと勝負をつけたい。そういう性格なんです。その性格ががぶり寄りに結び付いたと思います」

 時の大相撲界は、輪島、北の湖の「輪湖時代」の真っ只中である。荒瀬は輪島の横綱土俵入りの露払いとして、連日お茶の間に顔を売ることになった。

土俵上とは一転、私生活ではもの静かなタイプ

 そこで持ち上がったのが、改名話である。相手と胸を合わせるやいなや、勢いに任せてがむしゃらに寄り立てる相撲が荒瀬の魅力。そこで、本名の「荒瀬」からさらに迫力が増す「荒勢」へ。師匠・花籠親方(元前頭・大ノ海)の発案だった。

 荒勢と改名した昭和50年秋場所からの2年間が、荒勢の絶頂期だった。昭和52年春場所、関脇に返り咲いた荒勢は連続8場所三役を務める。52年秋場所は東関脇の地位で大関・貴ノ花、若三杉、三重ノ海らを破って堂々の11勝を収めると技能賞を獲得し、一躍、大関候補に躍り出た。

 勝負に一直線の土俵上とは対照的に、私生活ではもの静かなタイプだった。

 趣味は神社、仏閣巡り。信仰とは別に、日本的なたたずまいが荒勢の心を落ち着けた。自分からはしゃいだり、お世辞を言ったりするタイプではないので、多少とっつきにくい雰囲気があったものの、話を始めると味わいのある言葉が出てくる。「荒勢は今どきめずらしい礼儀正しい男。男でも惚れるよ」と番記者からも人気が高かった。

 また、努力を惜しまない男でもあった。プロの世界は大型力士が多い。学生時代に見せていた一般的な寄り身では、幕内の土俵で通用しないことを荒勢は心得ていた。

 もともと低い重心を、腰を割ってさらに低くしてがぶって寄れば、その威力が増してくる。この「プロに通じる技」について荒勢は「がぶり寄りは自分の性格から」と説明しているが、本当は計算しつくされた技だったのである。

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