「王貞治に756号を打たれた男」鈴木康二朗さん、世紀の対決に発奮してヤクルトを日本一に導いた名投手の気迫【2023年墓碑銘】

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 長く厳しい“コロナ禍”が明け、街がかつてのにぎわいを取り戻した2023年。侍ジャパンのWBC制覇に胸を高鳴らせつつ、世界が新たな“戦争の時代”に突入したことを実感せざるを得ない一年だった。そんな今年も、数多くの著名人がこの世を去っている。「週刊新潮」の長寿連載「墓碑銘」では、旅立った方々が歩んだ人生の悲喜こもごもを余すことなく描いてきた。その波乱に満ちた歩みを振り返ることで、故人をしのびたい。
(「週刊新潮」2023年3月2日号掲載の内容です)

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 1977年8月31日、王貞治さんはメジャーリーグのハンク・アーロンさんが持つ本塁打の世界記録755本に並んだ。世界一まであと1本。巨人の試合は日本中の関心を集めていた。

 翌9月1日、先発登板した大洋のエース、平松政次さんは振り返る。

「投球がボールになると“逃げた”とばかりにスタンドがどよめくのです。異様な熱気で勝手が違いました」

 世界一を達成する王さんと共に打たれた投手の名も刻まれる。対決は重圧だった。2日からはヤクルト戦。この日も一発は出ずに迎えた3日。約190センチの長身で、広岡達朗監督からジャンボと呼ばれていた鈴木康二朗投手が先発した。

「登板はローテーション通り。王の記録など気にせず勝負させた」(広岡さん)

 第1打席はフルカウントから四球。第2打席はファウルをはさみ、またもやフルカウントに。6球目、決め球のシンカーを投げた。

 外角に落ちるはずが、真ん中高めに入った球を運ばれた。これが王さんに打たれた最初の本塁打だった。

 次の打順で一部始終を見ていた張本勲さんは言う。

「鈴木さんの淡々とした様子を覚えています。いつも冷静で、打たれても感情的な表情をしない。こんな大記録にも落ち着いていた。ワンちゃんは、巡り合わせで申し訳ない気がしますと鈴木さんを気遣っていました」

信用してないんですか

 49年、現在の茨城県北茨城市生まれ。県立磯原高校から社会人野球の日鉱日立を経て、72年のドラフトでヤクルトに5位指名される。

 75年、1軍初登板。翌76年に初勝利し、頭角を現す。77年の世紀の対決当時、鈴木さん28歳、王さんは37歳。その夜は静かに飲んだ。これでだめになれば王さんに失礼だ、と前向きになった。

「鈴木は自ら発奮した。責任感が強く、かつて交代させた時には“信用してないんですか”と怒り出したほど気迫もある」(広岡さん)

 翌78年は13勝3敗1セーブ、最高勝率に輝き、ヤクルト初のリーグ優勝と日本一に大きく貢献した。

 野球評論家の有本義明さんは思い返す。

「華やかさはなくても良い仕事をする投手でした。756号を打たれた男、と言われ続けようが受け止めていた」

 83年、近鉄に移籍。抑えに回り84年と85年にパ・リーグで最多セーブを挙げた。

 野球評論家の藤原満さんも言う。

「ヤクルト時代より球威は衰えても打ちにくい。黙々と投げ、秘めた強さがあった」

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