【どうする家康】ハマった石田三成と見当はずれの徳川秀忠 わかりやすいキャラクター設定が生んだ落とし穴

エンタメ 芸能

  • ブックマーク

凡人にはできない巧妙な西国大名崩し

 しかし、秀忠はこの遅参を大きな糧にしている。慶長19年(1614)の大坂冬の陣の際、家康は10月11日に駿府城(静岡市)を発って23日に京都に着いた。一方、江戸にいた秀忠は出発が23日と遅れたため、6万の兵を率いながら多い日は1日に60キロ、70キロと進軍し、家康から「大軍が急いで進むと兵馬が疲労するので、ゆっくり進め」と再三の忠告を受けながら、最後まで行軍を緩めず、11月11日に京都に着いた。関ヶ原への遅参がトラウマになっているばかりか、将たるもの、武勇を疑われてはならないという強い意思が感じられる。

 だが、関ヶ原への遅参が招いたツケを必死に払ったのは、むしろ翌年5月の大坂夏の陣で豊臣氏が滅んでからだった。元和2年(1616)4月17日に家康が死去したのち、秀忠はかなり巧妙な策を次々と重ねていった。

 たとえば、家康の六男で、秀忠の実の弟である松平忠輝は、すでに家康から謹慎を命じられていたが、秀忠は家康の死後2カ月余りで改易、すなわちお取り潰しを命じた。自分の立場を脅かす人物を追いやったのである。

 西国の秀吉恩顧の大名対策にも余念がなかった。元和5年(1619)には、だれもがその代表格として認める49万8000石の福島正則を改易にした。理由は、洪水で破損した広島城(広島市)の石垣を幕府に無断で修復したのは、(大坂の陣後に発布された)武家諸法度に違反する、というもの。むろん、体のいい口実を見つけて危険分子を排除したのである。

 そして、広島城には和歌山城(和歌山市)から秀吉恩顧の浅野長晟を移し、大坂に近い西国の要地である和歌山には、家康の十男、すなわち実の弟の頼宣を置き、西国大名への押さえとした。また、福島正則の領地のうち、東方の10万石は家康の従兄弟である水野勝成に与え、巨大な福山城をあらたに築かせた。大坂の陣後の一国一城令や武家諸法度によって城の新築が禁じられたばかりなのに、例外を認めて西国へのくさびとしたのである。

 秀忠は同様に、大名の改易や転封を繰り返してその件数は40を超え、そのたびに徳川の覇権が行き届いていなかった地域に、譜代や親藩の大名を「くさび」のように打ち込んでいった。

三代将軍家光の業績も秀忠が敷いた基礎のおかげ

 たしかに大坂の陣後、家康は没する前の1年のあいだに一国一城令、武家諸法度、禁中並公家中諸法度をはじめ、幕府による支配体制の基礎となる法令を次々と整備し、徳川権力の永続のために尽力した。それがあってこそ、秀忠は徳川の支配体制を固めることができたのはまちがいない。

 しかし、家康には遠慮があってできなかったような大名の取り潰しまでを断行し、西国大名のあいだにくさびを打ち込んで、徳川の支配体制を盤石にすることなど、「鈍感」な「人並みな者」にできるはずがない。三代将軍家光にくらべると影が薄いといわれるが、秀忠が基礎を築いていなければ、家光はなにもできなかっただろう。

 若いころ鈍感だった人間が、成長とともにきわめて敏感になる、というケースもゼロとはいわないが、稀ではないだろうか。

 おそらく脚本家は、秀忠に付着する「凡庸」というイメージに引っ張られたのだろうが、秀忠が行ったことをつぶさに確認すれば、この二代将軍が凡庸だったという結論には、とても到達し得ない。「どうする家康」の足利義昭や明智光秀もそうだったが、わかりやすいキャラクターをねらうと、歴史ドラマでは大失敗につながることがある。一見、凡庸に見えるが……という描き方にしていれば、だいぶ違ったと思うのだが。

香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 次へ

[2/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。