【どうする家康】ハマった石田三成と見当はずれの徳川秀忠 わかりやすいキャラクター設定が生んだ落とし穴
豊臣秀吉(ムロツヨシ)は、この人物がもつ狂気がこれまでになく描出されて、秀吉らしい秀吉だった。石田三成(中村七之助)も、理想に燃えながら融通が利かずに周囲の反発を買うところに、この男はこうだったはずだと思わせる説得力があった。しかし、徳川家康(松本潤)の嫡男で将軍職を継承した秀忠(森崎ウィン)は、よくいわれる「凡庸」を通り越して「愚鈍」に描かれ、違和感しか覚えない。NHK大河ドラマ『どうする家康』の話である。
【写真5枚】「凡庸」のイメージに引っ張られ過ぎ…?秀忠を演じたのは
三成は、たとえば第40回「天下人家康」で、秀吉恩顧の大名たちの恨みを買って襲撃され、その責任をとって居城の佐和山(滋賀県彦根市)に退く際、「私はまちがったことはしておりませぬ。殿下(秀吉)のご遺命にだれよりも忠実であったと自負しております」といって、自身の正当性を力強く訴えた。
実際、さまざまな史料からも、三成は「ご遺命にだれよりも忠実であった」と思われるが、亡き秀吉の命令に忠実であろうとするあまり、他者に厳しく当たるとどうなるか。秀吉の存命中は、その意を受けた三成にみな従うしかなかったが、すでに秀吉はいないのだ。秀吉恩顧の大名たちは、たとえ反乱軍扱いをされようとも、三成を倒してこそ豊臣家のためにもなる、と思ったことだろう。関ヶ原合戦で家康が総大将を務めた東軍が勝利できた根本的な原因もそこにある。
要するに、三成はキャラクターを作りやすいのである。
「どうする家康」では、おそらく脚本家が登場人物のキャラクターを、単純でわかりやすいイメージに落とし込もうとしている。家康=弱いが成長する、織田信長(岡田准一)=容赦がない、秀吉=狂気をはらんだ悪人、足利義昭(古田新太)=愚鈍、明智光秀(酒向芳)=狡猾、真田昌幸(佐藤浩市)=曲者、本多忠勝(山田裕貴)=豪胆で一本気、三成=まじめだが融通が利かない、秀忠=凡庸……。こんな感じだろうか。
しかし、秀吉や三成のような極端な性質の人物は、それでキャラが立つかもしれないが、一般に人間はもっと複雑で、戦国の世の最前線を突っ走った人物であれば、たいていは一筋縄ではいかなかったはずだ。「コンフィデンスマンJP」とは違うのである。結果として、人物がきわめて薄っぺらに描かれてしまった例が多々あり、その一例が徳川秀忠である。
「人並みの者」であったはずがない
たとえば、第44回「徳川幕府誕生」。大坂城で関ヶ原合戦の戦勝報告をした家康は、茶々(北川景子)から秀吉の遺児で茶々が生んだ秀頼と、家康の孫(秀頼の長女)の千姫との結婚を約束させられた。それを聞いて秀忠は、「(茶々は)徳川と豊臣がしかと結ばれることを望んでおられる」といって安堵するが、家康はいら立って「早う人質をよこせといっておるんじゃ」と、秀忠に告げた。
このドラマでは、秀忠は常にこうして人がいったことの真意を理解しない。そして、だれかに真意を教わるたびに「えっ?」という。すでに述べたが、「凡庸」である以上に「愚鈍」とか「鈍感」というイメージである。
同じ回で秀忠は本多正信(松山ケンイチ)から、「あなた様はすべてが人並み。人並みの者が受け継いでいるお家こそ、長続きいたしまする。いうなれば偉大なる凡庸」といわれていたが、それが天下人の家に当てはまるわけがない。一般の大名は、周囲を見ながら中庸の判断を重ねていても、家が存続できるかもしれないが、天下人が凡庸では必ずほころびが生じる。国家の運営システムが構築されたのちなら別だが、家康が生きていた時代は、まだ徳川の覇権すら確立できていなかった。それを確立したのは秀忠であり、「人並みの者」ではないからこそ、それが構築できたのである。
秀忠に「凡庸」というイメージが根強い最大の理由は、慶長5年(1600)9月、関ヶ原合戦に遅参したことだろう。なにしろ、徳川軍の主力3万8000を率いて中山道を進軍しながら、上田城(長野県上田市)の真田昌幸への攻撃に手間取って足止めをくらい、9月15日の合戦にはまったく間に合わず、大津城(滋賀県大津市)にいた家康に追いついたのは、21日だった。家康は面会を許さなかったという。
しかも、家康は秀忠が遅れたために、秀吉恩顧の大名たちと関ヶ原合戦を戦わざるをえず、戦後、彼らの領地を大幅に加増するしかなくなった。その結果、西国はすべて外様大名の領地であるばかりか、8割が秀吉恩顧の大名の領地で占められ、徳川の覇権の確立にはかなりの時間と手間を要することになった。たしかに、秀忠の責任は重大だった。
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