コートにモードを持ち込んだテニスの女神「スザンヌ・ランラン」の功績とは(小林信也)

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ユニがファッション誌に

 ランランは、テニス女子シングルスと混合ダブルスで金メダル、女子ダブルスでも銅メダルに輝いた。

 ランランは全仏オープン女子シングルス優勝カップにも名前を刻まれ、会場のスタッド・ローラン・ギャロスにも名をとどめている。センターコートに次いで大きなコートは「コート・スザンヌ・ランラン」と呼ばれ、入口には両脚を前後に開き、ジャンプしながらボレーを打つ彼女の姿を模したレリーフがある。ランランの名前を知らなかった人も、スカートを翻して軽やかにプレーする写真やイラストには見覚えがあるだろう。彼女は、錦織圭の「エアK」の先駆けともいえるアクロバチックなプレースタイルとともに、斬新なファッションで女子テニスに大きな革命をもたらした伝説的な存在だ。

 ファッション誌「VOGUE JAPAN」のHPに《テニスウェア・レボリューション!》と題して、次のように記されている。

〈1900年初頭、快適さや機能性よりも慎み深さや上品さが尊ばれた時代、女性のテニスプレーヤーたちにとって、そのドレスコードは悲劇的だった。(中略)しかし、1920年代に登場した「テニスの女神」スザンヌ・ランランは、この窮屈極まりないルールをディスラプトし、当時流行していたフラッパースタイルをテニスコートに持ち込んだ。彼女が身に着けたのはノースリーブのドレスで、膝がちょうど隠れる丈のプリーツスカートになっていた。ランランはそれに、モノグラムの入ったカーディガンや、真紅と明るいオレンジ色のヘアバンドを合わせた。このユニフォームはフランス人デザイナー、ジャン・パトゥによってデザインされたもので、『Vogue』にも取り上げられた〉

 圧倒的な優雅さと華やかさを振りまき、人々の関心をテニスに引きつけた。

 モードのパイオニアと呼ばれ、現在も続くオートクチュールメゾン「ジャン・パトゥ」のHPにはこうある。

〈女性のシルエットを自由にすることでファッションに革命を起こしたジャン・パトゥ。クチュリエは、コルセットなしで着用するドレスや、当時かなり先を行っていたスポーツウェアをデザインし、テニスチャンピオン、スザンヌ・ランランを最初のミューズとしました〉

プロ38戦全勝

 ランランは1899年5月、パリに生まれた。スペルはLenglen。フランス語の発音はラングレンが近いはずだが、日本ではずっとランランと表記されている。

 11歳のころ、父の指導でテニスを始め、15歳の初夏には全仏選手権混合ダブルスで優勝した。直後に始まった戦争で選手生活は中断するが、終戦後、本格的に女王としての君臨が始まる。

 1919年のウィンブルドン女子シングルスで、それまで7回の優勝を誇るドロテア・ダグラス・チェンバースを10─8、4─6、9─7の大激戦の末に破り、初めてのシングルスタイトルを獲得する。ウィンブルドンでは23年まで5連覇を飾る。全仏選手権でも翌20年から単複ともに4連覇。両大会合わせてシングルス12勝、ダブルス12勝、通算24勝を挙げた。

 26年に世界初のプロテニス選手となり、北アメリカで開催された史上初のプロツアーで38戦全勝の成績を残した。女子プロテニスの歴史を開いた女神ランランは38年7月4日、白血病のため39歳で天に召された。

小林信也(こばやしのぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

週刊新潮 2023年12月7日号掲載

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