コートにモードを持ち込んだテニスの女神「スザンヌ・ランラン」の功績とは(小林信也)

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 札幌が招致を断念した2030年冬季五輪を「ウクライナで開催すればいい」と提案するのは、五輪アナリストの春日良一だ。

「IOCが予算を投入し、スポーツ施設を整備する。IOCにはそれだけの経済的余裕がある。そうすればオリンピックは平和の祭典の意義を取り戻せる」

 和平の進まない現状でその提案は空論と冷笑もされそうだが、スポーツを通して平和を希求する志には胸を打たれる。春日はその提言を直接トーマス・バッハIOC会長に送っている。

 実は、それと似た状況で開催地が選ばれ、実施された大会がある。1920年のアントワープ五輪だ。

 16年にベルリンで開催予定だった五輪はサラエボ事件に端を発して14年7月に勃発した第1次世界大戦によって中止となった。

 18年11月に戦争は終結したが、20年大会開催の見通しはまだ立っていなかった。開戦後に会長を辞し、自らフランス軍に従軍して戦地に赴いた近代五輪の創始者クーベルタンは19年3月、IOC会長に復帰。14年のIOC総会で決まってはいたベルギーに翌年の開催を改めて打診し、総会でアントワープを開催地に決めた。

 第1次世界大戦で焦土となったアントワープでオリンピックを開催することが、復興の大きな力になると示したかったからだといわれている。同じ時期、世界に猛威をふるったスペイン風邪の被害が比較的小さかったのがベルギーだという理由もあった。急きょ、8万人収容のメインスタジアムが建設され、その勢いはベルギーの再建に大きく貢献したとされる。

 そのアントワープ五輪で大活躍し、大会の花となったのがスザンヌ・ランラン(仏)だ。

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