【淡谷のり子の生き方】軍歌と演歌は嫌い、美空ひばりは大嫌い、北島三郎は好きだったらしい…ブルースの女王の根幹に“ジョッパリ精神”

  • ブックマーク

真の芸能とは大衆に根ざすもの

 淡谷は自分の歌を「はやり歌」と表していた。「大衆の歌」である。だが、それは聴き手を見くびったり迎合したりして生まれる類いの歌ではなく、格調高い「大衆の歌」だった。

 土俗的なものを嫌い、陳腐な歌や人をバカにしたりする芸に対しははっきり異を唱えるので、怖がれたり、恨まれたりしたこともあったが、それは「大衆」に敬意をはらい、「大衆」に根ざした芸能こそ、真の芸能という信念があったからだろう。

 85歳で新曲を出し、渋谷の小劇場ジァン・ジァンで80年から93年まで定期コンサートを開いた。まさにジョッパリ精神があったからこそだった。日本の音楽に大きな足跡を残し、闘士としては平塚らいてう(1886~1971)や与謝野晶子(1878~1942)に連なる女性でもあった。タンゴやシャンソンなど、ヨーロッパの音楽を咀嚼し、日本の歌の中に定着させた。いつも上品な色香を発していたのが淡谷だった。1972年に紫綬褒章受章、71年と78年に日本レコード大賞特別賞を受賞している。

 嫌なものは嫌。好きなものは好き。それが長生きの秘訣だったのかもしれない。ステージでピアノによりそって、そっと死んでいくのが理想だったかもしれない。

 足腰が弱くなり、車椅子を使うようになってからは、マイクを向けられても決して歌おうとはしなかった。93年12月、休養宣言。静かに余生を自宅で過ごしていた。98年には青森市の名誉市民に選ばれた。「光栄に感じています。決定のあかつきにはぜひ、(称号を)受けたい」と喜んでいたそうである。

 99年9月22日、老衰のため自宅で亡くなった。故人の遺志で訃報は伏せられていたが、3日後の25日、新聞やテレビ、ラジオでその死が報じられた。朝日新聞を始め各紙は1面で扱い、テレビも特別番組を組んだ。

 ラジオに出演中だった永六輔(1933~2016)は、番組の中で急遽、戦時中に沖縄で旧日本軍に集団自決を強いられながら生き残ることができた老婦人の話をした。婦人は「淡谷さんがいることが、戦後、生きる支えになった」と永に話したという。

 歌い手として、芸能人として、自分を美しく見せることにこだわった淡谷。瀕死の白鳥のように舞台で命を絶ちたいと、死に際の練習をしていたこともそうである。亡くなってから24年になるが、朝の連続テレビ小説「ブギウギ」の影響もあり、再び淡谷の生き方が注目されている。

 次回は俳優・勝新太郎(1931~1997)。「座頭市」シリーズなどのアンチヒーロー役で人気を博し、大麻所持や倒産と、私生活でも話題をまいた。華のある本当のスターであり、人間臭さをぷんぷん漂わせた名優でもあった。亡くなってから26年になる。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 3 次へ

[3/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。