【淡谷のり子の生き方】軍歌と演歌は嫌い、美空ひばりは大嫌い、北島三郎は好きだったらしい…ブルースの女王の根幹に“ジョッパリ精神”
「歌手じゃなくて『カス』」
日本芸能界のご意見番でもあった淡谷。楽譜も読めず、音声訓練もきちんとせず、音程さえいい加減な後輩歌手に対して、「歌手じゃなくてカス。粗大ゴミよ」と言いたい放題だった。美空ひばり(1937~1989)に対しても「大嫌い」。自分の正直な気持ちを隠さなかった。
ひばりが笠置シヅ子(1914~1985)の大ヒット曲「東京ブギウギ」を歌って芸能界に入ってきたことを快く思わなかったに違いない。「人のモノマネ」と公然と批判したのである。まだ10代のひばりを淡谷は楽屋風呂に入れてあげたこともあったが、後に国民的大スターになったひばりは「そんな思い出ない」と平然と言ったという。淡谷にとっては、まさに恩義を忘れる言動。淡谷は許せなかったのだろう。
一方、なぜか北島三郎(87)は好きだったらしい。青森出身の淡谷だけに、北海道出身の北島には親近感を覚えたのだろうか。北島の勇壮な歌が、淡谷の心を動かしたのだろうか。
さて淡谷だが、東京の城南地区で暮らしていた。実は私も近くに住んでいたため、「ここが淡谷のり子さんの自宅です」と近所の人に教えられた。本人がすでに亡くなっていたことや、建て替えられていたこともあり、いまはどんな人が暮らしているのかは分からないが、以前は表札に堂々と「淡谷」と書かれていた。でも、「有名人の豪邸だぞ!」といった雰囲気はなく、周囲の風景に溶け込んだ清楚な住宅だった。
ここで淡谷の経歴について簡単に振り返りたい。
1907年、青森市の呉服商の長女として生まれた。だが、父親の激しい女道楽の影響もあり、家は貧しかった。「教師になってほしい」という母親の願いもあり、県立青森高等女学校から東洋音楽学校(現・東京音大)に進み、クラシックの声楽を学ぶ。在学中も貧しい生活は変わらず、モデルをして学費を稼いだこともあった。
同校を首席で卒業後、1929年にレコード歌手としてデビューした。「別れのブルース」や「雨のブルース」などの流行歌だけでなく、ジャズやタンゴ、シャンソンなどをレパートリーとして幅広く歌い続けた。
結婚、離婚、裏切り……。さまざまな人生経験を生かし、著作や雑誌、放送での人生相談などでも活躍。80歳を超えてもテレビ出演やコンサート活動を続け、現役としての歌手活動にこだわった。
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