「老人に過去を忘れろというのは酷ではないか」 山田太一さんが描いた老人介護施設の人たちの心情

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 先月末に訃報が伝えられた脚本家の山田太一さんについては、各界から業績を讃える声、その死を惜しむ声がやまない。

 普通の人たちの日常を描きながらも、社会問題を考えさせられることが多かった山田作品。ファンの中でも人気の高い「男たちの旅路」で扱った、人生終盤の問題について山田さんはどう語っていたか。

 本人へのインタビューをもとに大ファンだったというジャーナリスト、神舘和典氏が寄稿してくれた。

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 11月29日、脚本家の山田太一さんが永眠した。享年89。神奈川県川崎市の老人介護施設での老衰と報道された。

 山田さんは1960年代から日本のドラマ史に残る数々の名作を書かれてきた。よく語られるのは1977年の「岸辺のアルバム」( TBS)と1983年からスタートして4シリーズ放送された「ふぞろいの林檎たち」(TBS)だろう。

「岸辺のアルバム」は、企業戦士としてがむしゃらに働く夫、貞淑に見える妻、それぞれ密かに問題を抱えている長女と長男による家族の崩壊と再生への希望が描かれる。不倫する妻を清楚の象徴のような八千草薫さんが演じたことに視聴者は驚かされた。お願い、八千草さん、不倫をしないで、とドラマを観ながら願った。

「ふぞろいの林檎たち」は、4流大学に通う落ちこぼれの学生たちが主人公。就職、恋愛などにハンディを持ちあらゆる場面で傷つく彼らを容赦なく描いた。

 山田さんは1934年に東京の浅草で生まれ、小学生のときに神奈川県の小田原に疎開。早稲田大学進学の際、東京に戻った。

 当時の話をご本人にうかがったことがある。熱烈なファンだった筆者は、ただ会いたいだけの理由で山田さんにインタビューを申し込んだ。テーマは「私の東京」。断られることを覚悟したが、どういうわけか応じてくれた。

広尾で過ごした貧乏学生時代

 山田さんが指定した取材場所は川崎市のご自宅近くの喫茶店。天気のいい冬の午後にわくわくして出かけていった。

 学生時代の4年間、山田さんは広尾のおばさんの家の庭で暮らしていたという。

 山田さんはその頃のことを楽しそうに振り返り、話してくれた。

 おばさんは山田さんのために4畳半の離れを建ててくれたそうだ。学生時代はお金がなく、豚のこま切れとモヤシをウスターソースで味付けして炒めて食べていたこと、毛玉だらけの古着のコートで冬を過ごし、春が訪れると質に出し、次の冬が来ると質から出しをくり返していたこと等々。

 大人になって成功してからも、かろうじて残っていたその広尾の離れを見に行くことがあるのだとおっしゃっていた。隣接する駐車場の壁のすき間からのぞくと、離れが確認できたそうだ。

 脚本を書く仕事においては常に厳しい姿勢で臨んでいることは伝え聞いていたが、昼間の喫茶店でお目にかかると、終始おだやかな笑みをたたえて話してくださった。

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