雅子さまがお生まれになった1963年12月9日には何が起きていたか 翌日の朝日新聞を紐解く

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JFK暗殺の衝撃

 10日の記者会見では、日米関係の今後について質問する記者も多かった。これには理由があり、11月22日、アメリカ大統領だったジョン・F・ケネディ(1917~1963)がダラスで暗殺。その衝撃がまだ覚めやらぬ頃だったのだ。

 紙面下の広告欄を見ると、「文藝春秋」や「中央公論」という月刊誌だけでなく、一般週刊誌や女性週刊誌もケネディ暗殺の大きな特集を組んでいることが分かる。

「この年の3月、黒澤明監督(1910~1998)の映画『天国と地獄』が公開され大ヒットしました。ところが、映画に触発された誘拐事件が多発し社会問題化。その中の一つが吉展ちゃん誘拐殺人事件で、4月に発生すると、何と警察は犯人を取り逃がしてしまいます(註:翌年に逮捕)。社会に大きな衝撃を与えましたが、これが12月になるとケネディ暗殺事件に取って替わりました。事件そのものも大ニュースでしたが、何しろNHKがアメリカと初の衛星中継を結んだ瞬間、現地の記者がケネディ暗殺を速報するという従来では考えられない幕開けだったからです」(同・記者)

東西冷戦の時代

 ケネディと聞けば、1962年のキューバ危機を思い浮かべる方もいるだろう。12月10日の朝日新聞の国際面には、キューバ危機でケネディと対立したソ連のリーダー、ニキータ・フルシチョフの名前も大きく記されている。

「9日からモスクワでソ連共産党中央委員会総会が開催され、フルシチョフが基調報告を行いました。その際、注目を集めたのは、化学工業で大増産を行うという宣言でした。重工業重視の姿勢を改め、国民生活の向上を目指して科学、農業、軽工業などの分野に国の総力を傾けると発表しました」(同・記者)

 雅子さまがお生まれになった当時、父親で外交官の小和田恆氏(91)は都内の外務省官舎に住んでいた。ロシア語が堪能だった小和田氏はその後、在ソ連日本大使館の一等書記官に就任。そのため雅子さまは、1歳数カ月からの数年間、モスクワで生活された。

 フルシチョフの命令に従い、ソ連が化学工業の大増産に取り組んでいる時期、雅子さまはモスクワにお住まいだったわけだ。ちなみに現地での生活に順応すると、雅子さまの寝言はロシア語になられたというエピソードも残っている。ちなみに、フルシチョフは翌64年10月に失脚し、政治の表舞台から姿を消した。

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