フランスと戦うか、ロシアと戦うか――ドイツ軍の明暗を分けた「2人の天才参謀」の相違点

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 欧州の真ん中に位置するドイツ。西にフランス、東にロシアという、二つの大国に挟まれた地政学的条件ゆえ、その安全保障戦略は常に難しいものとなった。そして実際、2度にわたる世界大戦を引き起こし、敗れることになる。

 戦後の国際政治学をリードした高坂正堯(1934~1996年)氏は、ドイツ軍を率いた2人の参謀総長の名前を挙げて、それぞれの戦略の是非について論じている。高坂氏の「幻の名講演」を初めて書籍化した新刊『歴史としての二十世紀』(新潮選書)から、一部を再編集して紹介する。

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 第1次世界大戦前のドイツという国のありようには、いくつかの特徴がありました。まずは大言壮語。当時の記録を読むと、「世界政策(ヴェルトポリティーク)」とか「ドイツが世界の中で名誉ある地位を占めたい」という言葉が頻出します。公言せず、密かにやるのが一番賢い。ところが到底不可能なのに、おおっぴらに世界に向けてそう主張したので、ドイツにとってよくない影響が出てきた。
 
 また「ドイツ人は優れている。だから、なんでもやればできる」という、いささか自信過剰ともいえる雰囲気が国内を覆うことになりました。

 急に発展した国家は、いろいろと足をすくわれる危険がある。商売も小さい分には大した儲けもないが、大きく失敗することもない。それが事業を急拡大すると、ちょっとした判断ミスが倒産につながるかもしれない。これは企業だけでなく国家も同じですが、当時のドイツ帝国は、国際関係における自国の脆弱さを、ゴリ押しで乗り越えようとする傾向があったのです。

モルトケとシュリーフェン

 話を戦争に戻して、ここでドイツ軍人の名を挙げます。まず、普仏戦争に勝ち、近代ドイツ陸軍を築いた名将「大モルトケ」。もうひとりは1905年に対仏侵攻作戦を構想したシュリーフェンで、1906年まで参謀総長の地位にありました。ちなみに「小モルトケ」と呼ばれる「大モルトケ」の甥っ子は、皇帝ヴィルヘルム2世のお気に入りで、次の参謀総長に就任し、前任のシュリーフェンが立てた作戦を改定して、1914年の第1次大戦開戦時のドイツ軍の統括的な作戦に採用しました。
 
 モルトケとシュリーフェンのいずれも、ドイツは東西の敵国に挟まれているという認識は同じです。しかし、そこから導き出される2人の考え方が異なります。モルトケは、西のフランスは専守で攻めず、東のロシアに対しては機動戦で勝つ、という作戦を立てました。一方、ロシアは人口も多いし通信や交通も未発達なので、動員には時間がかかる。その広大な領土を戦場に勝利するのは難しいので、先にフランスを相手にせよ、まず西を攻めるべし、というのがシュリーフェン・プランです。
 
 シュリーフェンはモルトケを尊敬し、服装も同じようにし、仕草やヒゲの生やし方も似せたほどでした。モルトケは派手嫌いで渋好みの人ですから、シュリーフェンはそれに倣い、身なりは地味にして、小声で会話するというモルトケの癖まで真似したという話もありました。ところが、作戦の立案においては、モルトケが考えた一番大事な点をシュリーフェンは手本としなかった、いや、わかっていなかった。

モルトケが見極めていた「限界」

 モルトケが西のフランスに対しては専守防衛、東のロシアには攻め込んで勝利といったとき、彼は全面勝利を想定していなかった。二つの脅威のうち、片方を除去できたら、ドイツの国力からして、後は外交に委ねるしかないとしているのです。ヨーロッパの中央に位置し、人口はフランスよりいくらか多い。だが、ロシアも敵に回してしまうと、露仏の人口を足せばドイツの2倍になる両国相手に、全面勝利を得ることなどできるわけがない。だから、双方を打ち負かすのは非現実的で諦めなければならないと、モルトケは考えていました。

 1870年の普仏戦争では、一部の人間が首都パリに立てこもります。「パリ・コミューン」と呼ばれるこの抵抗運動を除去するのに、プロシア軍がいかに苦労したかも、モルトケは覚えていました。野戦で敵陣に突入する際、小銃による火力に苦しみ、戦法の変更を強いられたものの、正規フランス軍は比較的楽な相手でした。セダンの戦いに敗れたナポレオン3世はすぐに捕虜になり、両国の大規模な戦闘は終結します。

 しかしその後、講和に不服だった市民や労働者がパリに立てこもります。蜂起軍を鎮圧するため、ブルジョアの支持を受けたティエール臨時政府軍との間で激しい市街戦になりましたが、モルトケ率いるプロシア軍はパリを砲撃するのに消極的だったので、コミューン派の制圧に手こずりました。

 人間のできることにはおのずと限界がある、というのが戦場での経験に裏付けられたモルトケの認識でした。普仏戦争に勝利した彼でも、70年代に立てた二正面作戦において、フランスだけでも勝つのはむずかしく、まして同時にロシアも敵に回せるわけはないと考えていたのです。

シュリーフェン・プランの「失敗の本質」

 そこで採りうる選択肢は、西は守って東で戦い、後は外交、という流れでした。ところがシュリーフェン・プランは、西を攻めてフランス軍を負かしたら兵隊が余る、それを東に移して今度はロシアを叩く、というものでした。動きが鈍いからとはいいませんでしたが、ロシアの広大さと通信・鉄道の未発達を都合よく解釈し、ロシアが動員に手間取っている間に、電光石火1ヶ月半でフランスに勝ち、返す刀で兵力を西から東に鉄道で移動させればいいと考えた。シュリーフェンが全面勝利のため立案したのは、脆弱な前提の上にのった、自信過剰かつ危うい作戦だったのです。

 もう一つ重要な点は、ドイツはフランスとの国境線を越えるのではなく、フランスの北東に位置するベルギーを通過して攻め込もうとしたということです。当時、ベルギーは中立の地位が保証されていたので国際法違反ですが、フランス包囲作戦のためにはそれが一番よいとシュリーフェンは考えた。問題は、ドイツ外務省もドイツ首相も、軍事的に必要であればやむを得ない、とシュリーフェンに同意していたことです。ですから、ドイツの悲劇は1905年「シュリーフェン・プラン」が立案されたとき、すでに決まっていたのかもしれません。

※本記事は、高坂正堯『歴史としての二十世紀』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

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