「心は女性なら女風呂に入浴可」はおかしいやろ! ベストセラー作家・百田尚樹氏が訴える「大いなる常識」

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「心は女性」で女風呂に

 政治の「非常識」に怒り心頭の百田尚樹氏の話は続く。前編では「政治屋」と堕した職業政治家、とりわけ世襲政治家への厳しい意見をご紹介したが、後編では百田氏が「日本保守党」を立ち上げるきっかけとなった「LGBT理解増進法」についての見解から聞いてみよう。

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――LGBT理解増進法については成立前から批判していましたね。

百田:差別はいけないということにはもちろん異論はありません。

 しかし、あの法律では、どう考えても女性を守れないリスクが高まる、法を悪用する犯罪者を誘発するのではないか、というのが最大の懸念でした。

 案の定、といってはなんですが、つい最近、三重県の温泉施設での事件が報じられましたよね。女性用の風呂に入った件で逮捕された男が、「心は女なのに」と主張しているそうです。

 私はこの事件がどう扱われるかに注目しています。つまり検察が起訴するかどうか。また起訴したとして、裁判官がどのように判断するか。

 万が一にもこれが不起訴あるいは起訴猶予になったり、仮に起訴されても裁判で無罪判決が出たりしたら、これはもう司法がお墨付きを与えたことになり、今後、警察は「心は女だ」と主張して女性用の浴室に入る男性を逮捕できなくなります。そうなれば、温泉などの業者に与える影響は非常に深刻なものになります。

 治安を守るためには、施設がそのような男性を排除しなければなりませんが、その場合、排除された男性は「差別だ」と言って、慰謝料や損害賠償を求めて民事で訴えてくる可能性があります。裁判所が彼の言い分を認めて施設側に賠償命令が出たら、それ以降、施設側は恐ろしくて、そうした男性を排除することはできなくなるでしょう。

 そのような流れができてしまい、男性が女性用の施設に入ることのハードルを下げたらどうなるのか。

 ちょっと想像してみてください。

 たとえば今でも女性用トイレでの盗撮がたびたび問題になっていますが、それでもカメラの設置にはそれなりのハードルがあるはずでしょう。しかし、男性の立ち入りが容易になればすなわち盗撮が容易になる。

 女子児童を狙う変質者が女性用トイレにいても、今なら男性がいるというだけで通報できます。しかし、見た目で判断できない、してはいけないとなれば、これもためらうようになるかもしれない。

 この法案を推進した稲田朋美議員などは、LGBT理解増進法と犯罪とは関係ないと言っていますが、私は説得力を感じていません。性善説でのみ考えていて、法を悪用する者のこと、彼らをどう取り締まるかについてはおろそかになっているからです。

 私が指摘しているような懸念に対する具体的で説得力のある説明を彼らがしているとは思えません。「犯罪は別に取り締まる」といった理屈を言うだけで、リスクが高まるといった指摘には耳を貸しません。

 もともとこの法案には、自民党の部会でも反対意見や慎重意見が多かったのに、与党が強引に成立させました。党議拘束までかけたのです。

 日本国民の暮らし、日常に関係する問題にもかかわらず、国民的な議論をすることなく通したのは大問題だと思います。

「偽善」的な政治家

――なぜそういうことになったと思いますか。

百田:先ほど(前編)で、政治家が大きなテーマに取り組まなくなったと言いましたよね。その代わりに、「偽善」が一つの動機になっているように感じます。

 移民問題が良い例でしょう。

「移民を受け入れるべきか否か」というような雑な問題設定をして、「受け入れるべきだ」という答えを出し、それ以上の議論は目をつぶる。そんな風潮が強い気がしてなりません。

 今どき、移民は一切拒否などというスタンスはそもそもないわけで、二択の議論にしてはいけないのです。

 問題は「どのくらい」「どういうペースで」入れることが、国益になり、また移民自身のためになるかということでしょう。

 一気に何の準備も対策もなく受け入れて「日本の文化やしきたりなんか知るか」という人たちがコミュニティーを作ることは困る、というのが多くの国民の正直な気持ちではないですか。

「共生社会」などというスローガンは聞こえがいいけれども、それを実現するには個別具体的な対策、プログラムが必要なのです。ところが、そういう懸念を口にしたらすぐに「差別主義者だ」とレッテルを貼られる。

――新著『大常識』の中で繰り返し述べている「リベラル」への違和感に通じる話ですね。

百田:近年、国内で見られる「リベラル」と称する人たちについては、社会全体が納得する前に、つまり国民の同意を得る前に改革を進めようとしているという印象を強く持っています。

 保守といっても、何でも変えないわけではありません。時代によって常識が変わるのは当然です。

 昔はみんな着物だったけれども、洋服のほうが便利だと思う人が増え、そちらが主流になりました。日本刀を持ち歩くのも、物騒だということで違法になったわけです。

 しかし、いわゆる「リベラル」とされる人には、「自分の考えは絶対に正しい」という傲慢さがあるように感じます。

 LGBT理解増進法を推進した人たちの中で、どれだけの人が反対派や慎重派の意見に真摯に耳を傾けたのでしょうか。

 最初から「あなたたちは古い」「差別だ」と言ってまともに議論をしなかったのではないですか。

「自分の考えは絶対に正しい」と思うから、党内の意見も国民の意見もろくに聞かずに突き進んだのではないでしょうか。

 もしかしたら自分は間違っているのでは――そんな謙虚さが感じられません。

死刑囚の権利と義務

 東京拘置所に収容されている死刑囚の男がカメラ付きの部屋で14年間も常時監視されたのはプライバシー権の侵害だとして、国に約1900万円の賠償を求める訴訟をおこしたというニュースが、2022年9月にありました。

 2013年に殺人罪などで死刑が確定したこの男は、一審で死刑判決を受けた2007年から天井に取り付けられたカメラによって着替えや排泄の様子もすべて撮影される東京拘置所の部屋に収容されたことが精神的に苦痛だったというのです。

 拘置所や刑務所では自殺、自傷、逃亡などを企てる可能性のある収容者に対してはカメラでの監視ができるようになっています。不測の事態に対応できず死なれたり逃げられたりしたら収容施設の責任が問われるのですから当然でしょう。しかし、この男は自分はそんなこと考えていなかったのに、そのことを十分に検討せずただ漫然と監視を継続したのは違法だと言うのですから開いた口がふさがりません。

 言うまでもなく監視の必要の有る無しを決めるのは死刑囚自身でなく拘置所側です。こんな言い分が通るのなら、「逃げも隠れもしないから家に帰らせろ」という要求も聞かなければならなくなります。ところがです。なんと拘置所は2022年3月以降、死刑囚の問題提起を受け入れカメラのない部屋に移したといいますから、またもや開いた口がふさがりません。これでは死刑囚の言い分が正しいと認めたのと同じです。その結果が1900万の要求ですから拘置所の弱腰にはがっかりです。

 現代の我が国は「人権」と言われれば、過敏に反応する風潮が強まっています。たしかに「人権」は人種、性別、年齢を問わず最も尊重されなければなりません。しかし、その中で唯一の例外は殺人犯です。メルマガ「ニュースに一言」でも死刑囚の“とんでも要求”がある度に毎回言っていますが、命という最も尊重される他人の権利を奪った殺人犯に認める人権なんてありません。ましてや国家に対する賠償要求などもってのほかです。

 そもそも死刑が確定してから9年も経っているのになぜ執行されていないのでしょう。百歩譲って死刑囚に“権利”があるとして、その前に確定判決後6ヶ月以内の執行という〝義務〟があるのを忘れてはいけません。

罪を憎んで犯罪者も憎む

 同書(『大常識』)の中で、百田氏は「たとえ受刑者であっても非人間的な扱いを受ける必要はないでしょう」とも述べている。この点は“人権派”の主張と重なるようにも見えるだろう。が、続けてこのようにも述べている。

「しかし彼ら(注・日弁連や朝日新聞など)の主張を聞いていると、頭が混乱してしまいます。一体今、問題にされている人物はどういうことをした人なのか。そこまでみんなで守ってあげなければいけない人なのか。

 犯罪者の人権を主張することに費やすエネルギーの一部、いや大部分は被害者を守ることに使ったほうがいいのではないか。そう思うのが普通の人の感覚だと思うのですが、そんなことを言おうものならばまた野蛮人扱いされるのです。

 犯罪といってもいろいろあり、それぞれに事情があるのもたしかでしょう。貧しさからやむにやまれず盗みを働いた、といったケースにまで厳罰を求めることはないのかもしれません。『罪を憎んで人を憎まず』とはそういう時に使うべき言葉です。

 一方で、多くの犯罪は罪を憎み、犯罪者を憎む。それでいいのではないかと思うのですが」

 国民の多くが共感する「常識」はどのあたりにあるのだろうか。

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