【追悼・山田太一さん】「僕は視聴率を獲れる作家ではありませんよ」「大学ごときで…」 12年の取材メモで振り返る“素顔と言葉”

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「岸辺のアルバム」で八千草薫の出演を熱望した理由

 山田さんにとって、フジテレビ「早春スケッチブック」(1983年)も思い入れの強い作品だった。大学時代からの親友である劇作家で歌人の寺山修司さんが評価してくれたと嬉しそうに話していた。

「寺山君は、山崎努さんが演じた男(家族を捨てた元カメラマン・沢田竜彦)と自分を重ね合わせながら見てくれていたようです」(山田さん)

 山田さんは早大の国語国文学科で同期だった寺山さんと入学早々に親しくなり、寺山さんがネフローゼで入院すると、連日のように見舞いに行き、病室で文学論や芸術論を語り合った。療養に差し支えると思った寺山さんの母親が「もう来ないで下さい」と山田さんに告げたほど。やがて世に出た2人は早くから認め合っていた。

 行動力もあった。昭和のドラマの最高傑作と評されるTBS「岸辺のアルバム」(1977年)の主演に予定されていた八千草薫さんが、竹脇無我さんと不倫する設定を嫌がり、出演を辞退しようとしたところ、山田さんが説得した。

「八千草さんのように絶対に不倫をしそうにない人に演じてほしいと頭を下げました」(山田さん)

 当初は静かに物語が進んだこともあってか、第2回の世帯視聴率は8.7%。だが、口コミで評判が広がり、最終回(第15回)では20.0%に達した。

「視聴率を獲れる作家ではありませんよ」

 山田さん自身は「僕は視聴率を獲れる作家ではありませんよ」と笑っていた。確かに山田さんの作品に突出した視聴率のものはない。殺人事件など刺激的な設定がないせいだ。そもそも数字を狙っていなかった。それなのに多くの視聴者の人生観や価値観に影響を与えた。希有な巨匠だ。

 8年前、一番好きな本を尋ねた。その答えに山田さんの本質の一端が表れていた。その本とは米国の女性小説家のメイ・サートンが書いた『回復まで』(中村輝子訳、みすず書房、2002年)だった。

「この本は彼女自身の1978年からの1年間が日記風に書かれています。当時の彼女は自信作を発表した直後。ところが、その作品がニューヨーク・タイムズの書評で酷評されてしまいます。内容が批判されたのではなく、『彼女は同性愛者だ』と叩かれたのです。まったく不当な話で、彼女は酷く打ちのめされました。小説も書けなくなってしまいます。ようやく自分を取り戻すのは1年後。その過程が書かれています」(山田さん)

 共生が考え方の下地にある山田さんは不当な差別を許さなかった。もちろん、作品でも差別やいじめを認めなかった。

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