【追悼・山田太一さん】「僕は視聴率を獲れる作家ではありませんよ」「大学ごときで…」 12年の取材メモで振り返る“素顔と言葉”
脚本を芸術の域に押し上げた山田太一さんが老衰のため死去した。89歳だった。決して声を荒らげない温厚な人だったが、内面は熱かった。約12年の取材ノートから山田さんの素顔を浮き彫りにしたい。
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脚本家としてのプライドが強い人
「1970年代前半まで、私たちドラマの脚本家は無いに等しい扱いを受けていました。役者さんにとっても脚本家の存在は小さく、収録が終わると脚本をクズ籠に捨ててしまう人すら珍しくありませんでした」(生前の山田太一さん)
日陰の存在だった脚本を芸術の域に押し上げたのは山田さん、倉本聰さん(88)、向田邦子さん、早坂暁さんたちである。
山田さんは謙虚で控えめな人だったが、脚本家という仕事には強いプライドを持っていた。NHKでのヒット作「銀河テレビ小説 江分利満氏の優雅な生活」(1975年)が筆者にとって思い出深いと話すと、「あれは私の作品ではありませんので」と渋面になった。小説家の山口瞳さんによる原作があったからだ。オリジナルしか自分の作品と認めなかった。
一方で初期の代表作であるTBS「ポーラテレビ小説 パンとあこがれ」(1969年)が面白かったと伝えると、「そうですか、観てくれていたんですか」と相好を崩し、創作の裏話を話し始めた。
山田さんは50年以上も脚本を書き、数多くの作品を残したが、一貫していたことがある。「私のドラマでは殺人事件は起きません」(山田さん)。刑事ドラマもミステリーも手掛けたことが一度もない。はっきりとした自分のテーマを持ち続けていたからだ。それは「人間の実像」を描くことだった。
「人間は無数の小説やドラマ、映画で描かれましたが、いまだよく分からないところがあります。分からないからこそ、書きがいがあります」(山田さん)
学歴と人間の真価は別の物
一方でメッセージ性が強いのも山田作品の特色。通っている大学の偏差値によって、人間性までランク付けされてしまうような風潮に強い疑問を抱き、書いたのが1983年からの4部作「ふぞろいの林檎たち」(TBS)。中井貴一(62)ら3流大生たちの物語だった。
中には「山田さんが一流大(早稲田大教育学部国語国文科)卒だから、他人事として書けた」と捉える向きもあるようだが、それは全く違う。山田さんの自宅に近い川崎のデパート内の喫茶店で、「大学ごときで人間としての価値まで判断されては、たまりませんよね」(山田さん)と聞かされた。この考え方は本人の生育歴も影響している。
「僕の生家は東京の浅草で食堂を営んでいました。周囲もすべて商店。家にあった本は落語全集や講談本くらいです。10歳だった1944年、戦況が悪化したため、家族そろって神奈川県湯河原町へ行きましたが、ここも知的な環境とは言い難い環境でしたね。周囲に住んでいたのは芸者さんや旅館の番頭さん、太鼓持ちの人たちでしたから。でも人間として立派な方がたくさんいました」(山田さん)
山田さんは「ふぞろいの林檎たち」で学歴と人間の真価は別の物であると繰り返し訴えた。温厚な人だったものの、内面は熱かった。
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