関ヶ原の戦いから大坂の陣まで…「家康」が生涯の最後にこだわり抜いた城をめぐる

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自分のための駿府城と要塞の決定版の名古屋城

 家康が将軍職を秀忠に譲ったのち、いわゆる「大御所政治」の本拠にしたのは駿府城だった。全国の錚々たる大名に工事の負担が割り当てられ、慶長12年(1607)2月から急ピッチで築城が進められ、三重の水堀をめぐらせた平城が竣工。すぐに失火して本丸が全焼するが、ふたたび諸大名による工事が行われ、同15年(1610)3月に完成した。家康が駿府への築城にこだわったのは、大坂の豊臣方と戦うことになった場合、ここで豊臣勢を食い止めて江戸を守る意図もあったとされる。

 家康に由来する三重の堀のうち、外堀と中堀はおおむね残る。ただし、明治29年(1896)に陸軍歩兵第34連隊が置かれると、内堀は埋め立てられ、天守台も破壊されたが、平成28年(2016)8月から令和2年(2020)3月の発掘調査で出土。石垣上端の平面が約48メートル×約50メートルと史上最大規模だったこの天守台は、令和4年(2022)3月までの整理作業をへて、いまは間近で眺められる。家康は元和2年(1616)4月17日、この駿府城で死去している。

 家康が自分のために築いたこだわりの城が駿府城なら、軍事要塞の決定版として生涯の最後に築いたのが名古屋城だった。慶長15年(1610)閏2月、西国を中心に20家の外様大名に命じて築城工事がはじまり、同17年(1612)暮れに天守が完成し、同20年(1615)2月に本丸御殿も落成した。

 そのわずかに前の慶長19年(1614)10月、大坂冬の陣に向けて駿府城を発った家康は、名古屋城に立ち寄って陣容を整えた。この事実は象徴的で、家康が名古屋築城を決意した背景には、大坂の豊臣秀頼の存在があった。豊臣勢が東海道を下ってきた場合に食い止めるための、徹底した防御体制が敷かれたのが、この名古屋城だった。

 戦前まで天守や本丸御殿をはじめ多くの建造物が現存していたが、昭和20年(1945)5月の大空襲で、多くが焼失してしまった。しかし、じつは本丸には、家康の時代から2棟の櫓が変わらずに建ち続けている。西南隅櫓と東南隅櫓で、2棟とも屋根は二重だが内部は3階建ての大きな櫓で、漆喰で白く塗籠られ、出窓型の石落としや多彩な破風で飾られるなど、家康の好みを反映している。

 加えて、清須城天守を移築して改造したと伝えられる御深井丸の西北隅櫓も、名古屋城唯一の三重三階櫓として、家康による創建時から建ち続けている。

 ところで、関ヶ原の戦い後に家康が築いた城郭は、ほぼ例外なく、諸大名に自己負担で工事を担当させる天下普請(御手伝普請)で築かれた。これは豊臣系など築城巧者の大名たちの技術を利用して堅固な城を築き、彼らの経済力を疲弊させるという一石二鳥をねらったものである。そのことを念頭にこれらの城を訪れると、家康がなぜ戦国の世に終止符を打つことができたのか、わかった気になる。

香原斗志(かはら・とし)
歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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