関ヶ原の戦いから大坂の陣まで…「家康」が生涯の最後にこだわり抜いた城をめぐる
政務の舞台、伏見城の遺構は各所に残る
先ほど、家康が伏見城で将軍の宣旨を受けたと書いた。伏見城も家康の政務の場として重要だった。慶長元年(1596)の大地震後、豊臣秀吉が場所を移して築き直した伏見城は、秀吉の死後、家康の大老としての政務の拠点となったが、関ケ原の戦いの前哨戦で、石田三成方の4万の兵に攻められて落城。しかし、京都近郊での政務の場が必要だった家康が、慶長7年(1602)に再建し、翌年、将軍の宣旨を受けてからは、その職を秀忠に譲るまで、ほとんど伏見城で過ごしている。
だが、元和2年(1616)の家康の死後、幕府は京都周辺の拠点城郭を二条城に絞ることし、同9年(1623)に廃城となった。現在は、かつての城の中心部が宮内庁管理下の桃山御陵(明治天皇と昭憲皇太后の陵)となっているため、発掘調査どころか立ち入りもままならない。だが、伏見城から移築されたと伝わる建築が各地に残っているので、それを味わうことができる。
たとえば、伏見城跡からほど近い御香宮神社(京都市伏見区)の、国の重要文化財に指定されている表門は、伏見城の大手門だったと伝わる。豊国神社(京都市東山区)の、彫刻や金の飾り金具で豪奢に彩られている国宝の唐門も、伏見城に由来するという。
秀吉の正室だった高台院(木下寧々)が秀吉の冥福を祈るために、慶長11年(1606)に建立した高台寺(京都市東山区)は、創建時から残る現存建造物はみな伏見城からの移築だと伝えられる。表門。書院と開山堂を結ぶ廊下橋中央の唐屋根が載る小さな観月台。個性的な茶室である傘亭と時雨亭。屋内の調度品類に金地の「高台寺蒔絵」がほどこされた色鮮やかな霊屋。いずれも国の重要文化財に指定されている。
京都市内やその周辺には、このほかにも伏見城からの移築とされる建造物は、まだまだある。また、少し距離は離れるが、確実に伏見城の遺構である建造物がある。福山城(広島県福山市)の三重の伏見櫓で、2階の梁に「松ノ丸ノ東やく(ぐ)ら」と刻まれ、伏見城松の丸の東櫓だったのはまちがいないとされる。
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