関ヶ原の戦いから大坂の陣まで…「家康」が生涯の最後にこだわり抜いた城をめぐる

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 慶長20年(1615)5月、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、翌6月、徳川家康はいわゆる「一国一城令」を発布し、主に西国の大名を対象に、居城以外の城郭を破却させた。これによって、全国に3,000以上存在した城郭の9割が廃城になったといわれる。西国には外様の大大名が多く、8割の領土がかつて「豊臣系」といわれた大名のものだった。家康は大坂の陣の総仕上げに、こうして外様大名の軍事力の弱体化をはかったのである。

 敵になる危険性を否定しきれない諸大名の城郭を制限することの重要性に、家康は人一倍敏感だった。その理由は、自身がこれまでに数多くの城郭を築き、軍事面におけるその重要性を熟知していたからにほかならない。

 事実、家康は慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いで勝利して以後、大坂の陣が勃発するまでのあいだにも、いくつもの城郭を築いてきた。その一つひとつは、きわめて個性的であるとともに、なぜこの場所にこういう城を築いたのか、ねらいが明瞭なものばかりである。もちろん、その多くは軍事的に重要な役割を果たす可能性があるからこそ築かれた。

 家康が還暦の前後から築いた城は、現在も見応えがあるものが多い。NHK大河ドラマ「どうする家康」の締めくくりに周るのもいいのではないだろうか。

将軍任官と大坂の陣戦後処理の舞台、二条城

 まずは二条城。関ヶ原の戦いに勝利して半年余りが経過した慶長6年(1601)5月、家康は京都のほぼ中央の、二条通と堀川通が交差する地点に建ち並ぶ5,000軒の町屋を立ち退かせ、加藤清正ら西国の大名に命じて築城を開始した。ほかの城にくらべると堀が狭く、縄張りが単純なのは、二条城にかぎっては、さほど軍事力が求められなかったからである。

 この城の主たる目的は、御所の西方に朝廷との儀式に供する徳川家の拠点をもうけ、朝廷や諸大名に徳川の世の到来を知らしめることにあった。具体的には、家康が将軍に任官される際、この城が必要だった。実際、家康は慶長8年(1603)、伏見城で征夷大将軍の宣旨を受けると、二条城から御所に参内し、勅使を二条城に迎えて将軍就任の賀儀を執り行った。2年後に嫡子の秀忠が将軍職を世襲した際も、二条城は同様に使われている。

 大坂夏の陣の終了後も、家康は二条城に115日間滞在した。公家や諸大名を招いて戦勝を祝う宴を催し、さらには戦後処理とその後の体制づくりも、二条城内で模索した。

 二条城の歴史における最大のハレの日は寛永3年(1626)、後水尾天皇がここに行幸したときで、すでに将軍職を退いていた大御所の秀忠と三代将軍家光は、それに合わせて城を大改修した。現在、二条城の城域は東西に長く、西側が少し狭い凸型をしているが、家康の時代は東側の現二の丸を中心とした、正方形に近い敷地だった。

 現存する国宝の二の丸御殿は、行幸に合わせて大きく改修されたが、南東から北西に雁行する建物の配置は変わっていない。家康や秀忠の将軍宣下が行われた広間は、現在の大広間に該当する。現状では、将軍が座る一段高い一の間(上段の間)と、諸大名が並ぶ二の間の上下段2部屋で構成されているが、家康による創建時は、上中下段の3部屋に分かれていた。しかし、部屋の規模は変わっていないと考えられる。

 二条城には現存建造物が多いが、多くは寛永の行幸に合わせ、あるいはそれ以後に建てられている。そんななかで東大手門は築城時から同じ場所にある。ただし、その後、建て替えられた可能性も否定しきれないが、その姿に家康の好みが反映されていることはまちがいない。

 また、家康のころは自然石を荒加工して積んでいた石垣は、大半がその後の改修で、加工した築石を整然と積んだものに替わっている。だが、城の東側にあって外堀の役割を担っていた堀川の護岸にいくと、築城時の荒々しい石垣が改修されずによく残っている。

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