【阿久悠の生き方】5000曲の歌詞を残した作詞家は、昭和の時代に何を伝えたかったのか
ピンク・レディーとの出会い
阿久の経歴に戻る。明治大学文学部を卒業後、広告代理店に勤務。テレビ番組の企画などを手がけた後の1966年、フリーとなり、作詞を中心に執筆活動に入った。特に、これまでの日本の歌謡界を打ち壊したいという意欲を持って作詞活動を展開したのではないだろうか。男と女の情愛についても、「惚れた、はれた」のめめしい世界観を嫌った。
尾崎紀世彦(1943~2012)「また逢う日まで」(作曲・筒美京平、71年)、和田アキ子(73)「あの鐘を鳴らすのはあなた」(作曲・森田公一、72年)、森昌子(65)「せんせい」(作曲・遠藤実、72年)、ペドロ&カプリシャス「ジョニィへの伝言」(作曲・都倉俊一、73年)、都はるみ(75)「北の宿から」(作曲・小林亜星、75年)、ピンク・レディー「UFO」(作曲・都倉俊一、77年)、小林旭(83)「熱き心に」(作曲・大瀧詠一、85年)など、それこそ書き切れない数の作品がある。「宇宙戦艦ヤマト」(歌・ささきいさお、作曲・宮川泰、74年)、「およげ!たいやきくん」などアニメや子ども向け歌謡曲も多く手がけている。特に、オーディション番組「スター誕生!」からは、森昌子、桜田淳子(65)、山口百恵(64)、岩崎宏美(65)、新沼謙治(67)、小泉今日子(57)ら多くのスターを生み出した。
だが、中でも特筆すべきは、「作詞家を超えて、イメージの世界をデザインしつづけていたようで、面白い時代であった」(前掲「愛すべき名歌たち」より)と自身が回顧したピンク・レディーとの出会いだった。遊園地の新しいアトラクションを次々に作っていくような仕掛けの面白さに取り組むことで、阿久は確かに時代を動かした。
冒頭のインタビューに戻ろう。阿久の受け答えは丁寧で明確だった。私の目の前にいるのは確かに「歌謡界の巨人」なのに、そんなそぶりは一切感じさせなかった。私は当時、北海道の最北端、稚内の支局に勤務していたが、「稚内ってどんなところなの?」と阿久から逆に質問されたくらいだ。それくらいフランクな雰囲気での取材だった。
同様に、彼が手がけた歌の詞も、意味不明な文言や暑苦しい情緒に流されているものは一切ない。いたってシンプルである。絵画に喩えるなら、抽象画ではなく具象画である。
だが、具象と言っても、単に事実を単純に並べるのではない。視点や構図が全く違うのだ。沢田研二(75)の「勝手にしやがれ」(作曲・大野克夫、77年)は、「壁ぎわに寝返りをうって 背中できいている」なんて、まるで映画を見ているようである。
言葉一文字にこだわった。都はるみの「北の宿から」は「女ごころの未練でしょう」と歌い上げる。それまでの演歌のつくりだと「未練でしょうか」と問いかける形になるところを、あえて「か」を抜いた。自分を客観視し、自立する女性を登場させたのが阿久だった。都は以前、私の取材に
「『あなた死んでもいいですか』なんて言いながら、この女は絶対に死なないなと思う。強い女なんです。私に似ているなと思った」
と話したことがある。
阿久の詞は、人間関係が希薄になりがちな現代社会へのSOSだったかもしれない。阿久は「時代の飢餓感にボールをぶつける」ことを自分に課していた。世の中が豊かになっても満たされないものがある、と。象徴的なのは、河島英五(1952~2001)の「時代おくれ」(作曲・森田公一、86年)だろう。
《目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず》
この国がバブルに浮かれ始めた86年、49歳のとき発表した。親友の上村一夫(1940~1986)が45歳で急逝した年だ。劇画「同棲時代」で一世を風靡し、「天才」といわれた漫画家。「彼の死がぼくを変えた。天下を取る気でいたのが空しくなった」と阿久は語っている。
昭和が輝いていた時代を懸命に生きた阿久。けれど、「ちょっと止まって足元を見ようよ」と私たちに伝えたかったのではないか。阿久は2007年8月1日、尿管がんのため都内の病院で逝った。享年70。死と向き合いつつも、執筆の意欲は失わなかった。病は阿久の肉体を奪ったが、魂を奪うことはできなかった。
次回は歯に衣着せぬ発言で芸能界の御意見番的存在としても知られた歌手・淡谷のり子(1907~1999)。NHKの朝の連続テレビ小説「ブギウギ」の茨田りつ子のモデルで、「ブルースの女王」と呼ばれた歌姫の素顔に迫る。
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